誘蛾燈 他九篇 横溝正史 [#表紙(表紙.jpg)]  目 次   妖説血屋敷   面《マスク》   身替わり花婿   噴水のほとり   舌   三十の顔を持った男   風見鶏の下で   音頭流行   ある戦死   誘蛾燈 [#改ページ] [#見出し]  妖説血屋敷    菱川流家元  ああ、思い出してもぞっとする。世のなかになにが恐ろしいといって、人殺しほど恐ろしい出来事がまたとあろうか。あの血みどろな得体《えたい》の知れぬ人殺し。しかもひとりならずふたりまで。——いやいや、恐ろしいのはそればかりではない。この殺人事件にからまる因縁の恐ろしさ。お染様の呪《のろ》いだの、血屋敷だのとそれはもう薄気味の悪いことばっかり。  ああ、わたしはなぜこんな恐ろしいお話をしなければならないのだろう。元来わたしのような教育のない女に、物を書くなんてことは柄《がら》にもないのだ。自分でもそれはよく承知している。しかしわたしはいま、どうしてもこの物語を書いておかなければならぬ。そのわけは終わりまでお話しすればわかっていただけることと思う。  さて、読者のなかには菱川《ひしかわ》とら[#「とら」に傍点]という名を御存じのかたもあるだろう。菱川流の踊りの家元、七代目とら[#「とら」に傍点]というのがわたしの母なのだ。母といっても血をわけた親子ではない。わたしは養女なのだ。しかし養女とはいえ幼いときからもらわれてきたわたしたちは、まったくほんとうの親子も同然、すくなくともわたしのほうではそう思っていた。  養母の肚《はら》ではみっちりわたしを仕込んで、ゆくゆくは八代目を継がせるつもりだったのだろうし、わたしもその気で、二十五になるこの年まで一生懸命に励んできたおかげで、将来は母まさりになるだろうとひとからもいわれ、自分としても、それが母に対するなによりの孝養と思い、八代目を名乗る日を一日千秋の思いで待ちこがれていたのに、無残にもそののぞみをふみにじられたときのわたしの口惜《くや》しさ。  その時分、中風の気味で離れ座敷に寝たきりだった母のとら[#「とら」に傍点]が、ある日わたしを枕《まくら》もとに呼びよせると、 「おまえにはもうこの家は譲れぬ、いままで面倒を見てきたが、この先は勝手にするがよい」  と藪《やぶ》から棒のお言葉。あまりだしぬけの挨拶《あいさつ》なので、わたしは自分の耳を疑ったくらいだ。 「おっかさん、わたしに悪いことがあればお詫《わ》びいたします。どうぞ御機嫌《ごきげん》をなおして……」  わたしは泣いてかき口説いた。しかしわたしが詫びれば詫びるほど、母はますます冷ややかになり、 「お銀、おまえ口ではそういっても、腹のなかではまた、毎度のことだろうとたかをくくっておいでだろう。しかしこんどばかりはそうはいかぬ。おまえさんがいなくてもわたしはちっとも困りゃしない。わたしの名はお千に譲るつもりだから、そう思っていておくれ」  わたしはハッとした。いまから思えばそのときわたしはずいぶん怖い顔をしたのにちがいない。母はそれを見ると急に大げさに身を震わせ、 「おや、お銀、それはなんという顔だえ。かりそめにもそれが親と名のつくわたしを見る眼付きかえ。ああ、いやだいやだ。そういう根性だからわたしゃおまえに愛想がつきたのだ。それに比べるとお千のほうがどれだけ優しくしてくれるか知れやしない。ゆくゆくはあれと鮎三《あゆぞう》を夫婦にして、ふたりにこの家を譲るつもりだ」  その言葉にわたしは初めて、母の怒りの原因がわかった。母はこのあいだ、鮎三さんとの縁談を、わたしが断わったのを根に持っていらっしゃるのだ。  その時分うちは、わたしたち親子のほかに、母の甥《おい》にあたる鮎三さんと、内弟子のお千ちゃん、ほかに女中のお鶴《つる》と都合五人暮らしだった。  鮎三さんというのは母のお妹さんの忘れがたみで、幼い時分両親を失ってからというもの、母の手元でわたしといっしょに大きくなったひと、わたしより六つ年少の市松人形のように可愛い少年だったが、母は決してこのひとに優しかったとはいえない。わたしの口からこんなことをいうのもなんだが、生涯《しようがい》独身で通してきた母は、ずいぶん気むずかしい人で、わたしなどもどれくらい泣かされてきたかわからぬが、鮎三さんに対してもずいぶん邪険な仕打ちが多かったものだ。  それが近ごろ体が不自由になってくると、結局血は水より濃いの譬《たと》えのとおり、急にこの甥のことが気になってきたのであろうか。 「お銀や、おまえ鮎三と夫婦になって、この家を継いでおくれでないか」  というような話が、すこし以前にあったのをわたしはお断わりしたのである。  わたしはなにも鮎三さんがきらいというわけではない。どうしてどうして前にもいったとおり、母の邪険な仕打ちにどうかするとぼんやり涙ぐんでいるようなこの人を、いつも弟のようにかばってやったのはこのわたしだ。しかしそれとこれとは話がちがう。第一年齢からしてわたしのほうが六つも上だ。いや、気持ちの上からいえば十も十五もちがうような気がする。弟としてはいいけれど、夫にするには頼りないような気がしてならないのだ。  母はそれを根に持っていられるのだ。そこへ持ってきて、近ごろわたしの評判が、とかく母を凌《しの》ぎそうなので、病人の僻《ひが》み根性からわたしが憎くてたまらないのにちがいない。 「お銀、あとで坂崎さんに電話をかけて、お暇の節に来ていただくようにいっておくれ」  その言葉がわたしには死刑の宣告のように思えた。坂崎さんというのは弁護士で、しかも母のいちばん有力な後援者、母はかねてからこの人に遺言状を預けていられるのだが、きっとそれを書き替えるつもりなのだろう。 「おっかさん」  と、わたしはそういったが、急にハラハラと涙がこぼれてきた。しかし母はいうだけのことをいってしまうと、ジロリと意地の悪い眼でわたしの顔を見たきり、くるりと向こうを向いて、貸本屋が持ってきたばかりの草双紙を開いた。旧弊《きゆうへい》な母は現代式な活字がきらいで、いつも昔の本ばかり読んでいられるのだ。  わたしはもう取りつく島もない。しばらくぼんやりと母の開いている本の挿《さ》し絵《え》をながめていたが、なんといっても無駄《むだ》だと観念した。腹のなかは煮えくり返るようだが、母を相手に喧嘩《けんか》するわけにもいかぬ。わたしはふらふらするような気持ちをおさえながら縁側へ出たが、すると意外にも、廊下の端に立ってじっと庭のほうを見ている鮎三さんにぶつかったのだ。    お染様  鮎三さんは立ち聴きしていたのにちがいない。そう思うとわたしはカッとして、無言のまま行き過ぎようとすると、鮎三さんがうしろから、 「姉さん」と呼びとめたが、急に顔を赤らめるとおどおどしながら、 「あれ!」  と薄暗い庭を指しながら、さっとおびえたような色を眼に浮かべる。わたしは釣りこまれて、その場に立ち止まると、 「なによ、どうしたの?」 「なんだか妙な影が……」 「妙な影って?」 「髪を振り乱した女の影が。……あれ、お染様じゃなかったかしら」  と鮎三さんは急にガクガクと震えだす。 「しっ、およしよ。そんなこというもんじゃないわ。そうでなくてもおっかさんの神経が立っているときじゃないか。縁起でもない」  とはいうもののやはり気にかかる。 「鮎三さん、それほんとう?」 「いや、ハッキリとはいえないけれど、なんだかね、影のようなものがじっと離れのほうを見ていたような気がしたの」  と、鮎三さんは妙な手付きをする。わたしはゾッとして襟《えり》をかき合わせながら、 「お千ちゃんじゃなかったのかい?」 「いいえ。ほら向こうの車井戸のそばに八手《やつで》の葉がかぶさっているでしょう。あの陰にこう……」  と、鮎三さんがまたもや妙な手付きをしかけたとき、軽い足音とともに、枝折戸《しおりど》の陰から現われたのはお千ちゃんの眼も覚めるばかりの鮮やかな姿。お千ちゃんは首をかしげて、 「おや、兄さん、姉さん、そんなところでなにをしていらっしゃるの?」  と花簪《はなかんざし》のビラビラを震わせながら尋ねる。 「お千ちゃん、おまえさんいま、向こうの車井戸のほうへ行きはしなかった?」 「いいえ、どうして?」 「いや、なんでもないけれど」 「変ね、ずいぶん、——なにかあったの?」  お千ちゃんはあどけない眼をしてわたしたちの顔を見比べている。結いあげたばかりの鴛鴦髷《おしどりまげ》の水々しさ。草色友禅の鮮やかさ。お千ちゃんは今年十八、ねたましいほどの美しさだが、それだけに鮎三さんがいま見た幻からは、およそかけはなれた存在だった。  それにしてもなぜわたしたちが、このようにとりとめもない白昼の幻におびえるのか、またお染様とはなんのことか。その子細をひととおりお話ししておこう。それはあなたがたにはじつに馬鹿馬鹿しい迷信であるかもしれぬが、その迷信がこの物語に大関係があるのだから、どうしても一応お話ししておかねばならぬ。  初代菱川とら[#「とら」に傍点]という人は文化年間に一派を立てた名人だが、この人は男だった。この初代にお染様という愛妾《あいしよう》があったが、このお染様が役者と密通したというので、初代はこれを嬲《なぶ》り殺《ごろ》しにしたあげく、土蔵の壁に塗りこめたという話がある。その怨霊《おんりよう》が代々菱川流の家元にたたるというのだ。なんでもお染様が嬲り殺しにされるとき、焼《や》き鏝《ごて》で左眼をつぶされたとかで、以来菱川流の家元は代々左の眼を患うなんてことがまことしやかにいわれている。  いまはもうなくなったが、震災前まで本所にあった初代の屋敷は、昔から血屋敷と呼ばれたもので、土蔵の壁をいくら塗りかえても、ボーッと黒い人の形が浮き出してくる。お染様を塗りこめた跡だというのである。  むしろ真偽のほどはわたしの知ったことではない。しかし血屋敷だのお染様だのという名が、昔から菱川流にとってなにより禁物であったことは事実で、ことに養母が昨年中風を患って以来、どうかすると左の眼が霞《かす》むなどといい出してからというものは、お弟子さんのなかには気味悪がって近寄らぬようになった人もあるくらいだ。  そういう折りからだけに、鮎三さんの見た幻というのが、なにか凶《わる》い前兆のように思えてならなかったが、あとから思えばやっぱりそうだったのだ。思い出してもゾッとする、あの恐ろしい数々の出来事——ああ、やっぱりお染様の呪《のろ》いに嘘《うそ》はなかったのだ。    第一の殺人  その晩わたしは怖い夢を見た。まっくらな、広い、荒れはてたお屋敷のなかだった。ふと壁を見ると、なにやらボーッと黒いしみが見える。お染様の血だ、とそう気がついたとたん、そのしみが見る見る恐ろしい人の形となった。その形相《ぎようそう》の物すごさ。わたしは思わずギャッと叫んだが、その声にふと眼をさました。そのとたん、どこやらで魂消《たまげ》るような悲鳴。はて、わたしはまだ夢を見ているのだろうか。夢なら早くさめておくれ。  しかしそれは夢ではなかった。二階にある舞台のほうから、トントンと軽い足拍子の音が聞こえてくる。この真夜中に、だれだろう。  わたしは急に恐ろしくなった。寝床のなかで体が石のように固くなった。しかし怖いからといって放っておくわけにはいかぬ。母が寝ている以上、すべての責任はわたしにあるのだ。そこでわたしは怖々《こわごわ》ながら女中のお鶴を起こしにいったが、お鶴の寝床は空っぽだ。  足拍子の音はまだ続いている。トン、トンと弱いながらも格にはまった足拍子だ。わたしはもう怖くてたまらないのだが、それでも勇をふるって登っていくと、階段の上にはお鶴が寝間着のまま倒れている。気絶しているのだ。  わたしは思わずドキリとして、 「お鶴、お鶴」  といいながら、ひょいと舞台のほうへ眼をやったが、いやそのときの恐ろしさ。  だれが開いたのか雨戸の隙《すき》から、朧《おぼろ》なる薄明かりが一筋、斜めにさっと舞台の上へ落ちたなかに音もなく踊っている朦朧《もうろう》たる人の影。いま思い出してもゾッとする。あのとき、よくまあ腰を抜かさなんだこと! うす紫の小袖《こそで》に振り乱したザンバラ髪。そして顔半面はぐちゃぐちゃに崩れていて、ただひとつ、ギラギラ光っている眼の物すごさ。ああ、ちがいない。話にきくお染様だ。わたしは全身の血が一時にさっと凍ってしまうような恐怖に打たれた。  お染様はジロリとわたしのほうを尻目《しりめ》にかけると、スルスルと音もなく雨戸のほうへ寄り、そのまま外の闇《やみ》へ消えてしまった。と思うまもなく、下のほうからアレッという女の悲鳴。お千ちゃんだ。わたしはそれを聞くと不思議に勇気が出てきた。お鶴をうっちゃらかしたまま、下へ降りてみると、まっくらな廊下にお千ちゃんが寝間着のまま震えている。 「お千ちゃん。どうして?」 「あ、姉さん、なんだか怖いものが上のほうから。……」 「そして、それどこへ行ったの」 「あちら。……お師匠さんの居間のほうへ。——」  とお千ちゃんが震えながら指さすかなたから、鮎三さんが寝間着のまま飛び出してきた。 「どうしたのさ。いったいなんの騒ぎだね」 「鮎さん、ちょっとお母さんを見てあげて」 「え? 伯母《おば》さんどうかしたの」 「なんでもいいから見てあげてよ」  鮎三さんは廊下を渡って離れの前へ行くと、 「伯母さん、伯母さん」  と声をかけたが返事はない。障子を開くと暗闇《くらやみ》のなかからプーンと異様な匂《にお》い。 「姉さん。灯《ひ》をつけましょうか」 「ええ、そうしてちょうだい」  鮎三さんが手探りに、行燈《あんどん》のなかに仕掛けてある電球をひねったが、そのときの恐ろしさ。  座敷のなかは血の海だった。  そしてその血潮の海のなかに、無残にも咽喉《のど》をえぐられた養母、七代目の菱川とら[#「とら」に傍点]が、掻巻《かいまき》のなかから半身乗り出すようにして、虚空《こくう》をつかんで死んでいるのだった。ああ、その形相の物すごさ。あたりには煙草盆《たばこぼん》や、うがい茶碗《ぢやわん》や、草双紙本が血潮にまみれて散乱している。    初七日の夜  それからのちのごたごたは今さらここに繰り返すまでもあるまい。お巡りさんが来る、刑事が来る、新聞記者が来る、大騒ぎのうちに鵜沢《うざわ》さんという警部がいられたが、この方がこんどの事件の主任だったらしい。四十ぐらいのキビキビしたうちに愛嬌《あいきよう》があって、物をお尋ねになるにもたいへん優しく訊《き》いてくださる。  わたしはひととおり昨夜の出来事を話したが、警部さんはお染様の幽霊というのに、たいへん興味をお持ちになった模様で、 「それであなたのお考えはどうです。やはり幽霊の仕業だと思いますか」  まさか。——わたしは幽霊なんて信じやしない。これはきっとだれかこの家にからまる伝説を知っている者が、人の眼をくらますために、お染様に化《ば》けてやった仕事にちがいないのだ。わたしがそういうと、警部さんは感心されて、 「なるほど、そうかもしれません。ところでそれがだれだか心当たりはありませんか」 「さあ。——」 「だれか、お母さんに怨恨《えんこん》を抱いているというような人物に心当たりはありませんか」 「さあ——」  わたしが答え渋っているのを見ると、警部さんはいいかげんに打ちきって、刑事を指揮しながら家じゅう隈《くま》なく捜索していたようだが、はたしてなにか証拠をとらえられたかどうか疑わしい。  しかし、その晩の夕刊を見ると、だれか裏の堀から、塀《へい》を越えて忍び込んだ跡があるというようなことがのっていた。いい忘れたが家の裏はすぐ大きな堀に面しているのだ。  その当時のいやな思いをわたしはいまだに忘れることができぬ。毎日のように警察へ呼びだされる。無遠慮な新聞記者の襲撃をうける。近所の人の変な眼付き、そこへ持ってきて、鮎三さんやお千ちゃんの妙な素振りだ。  あれ以来鮎三さんたら、わたしの顔を見ると、おびえたようにすぐ眼をそらすのだ。それでいてなにか話したいことがあるらしいのは、ハッキリとその素振りでわかっている。そこでわたしが言葉をかけると、ピクッと飛び上がったりするのだ。お千ちゃんはお千ちゃんでまた、頭痛がするといって碌《ろく》に口も利かない。なにかというと溜息《ためいき》ばかり吐いていて、ときどき、訴えるような眼で、じっと鮎三さんの顔を見ているのだ。そういう煮え切らぬ気分のうちに、早くも日がたって初七日の晩のこと。  事件が事件だけに、その晩お集まり願ったのはごく内輪だけだったが、なかでいちばん主立った人はといえば、例の坂崎弁護士、前にもいったとおりこの人は、いちばん有力な後援者で母の遺言状まで預かっている人だ。 「さて、師匠もひょんなことになったもんだが、いつまでもこうして跡を放っておくわけにもいかぬ。早く跡を立てて立派にやってもらわねばならぬが、その跡目について……」  と、坂崎さんはジロリと一座を見渡すと、わたしの顔をチラと見て、 「これは当然お銀さんというのが順序だろうが、じつは故人が死ぬ間際にわしのもとへ手紙をよこしてね、八代目はお千さんに継がせたい、そしてお千さんと鮎さんを夫婦にして、跡を立ててもらいたいというのが故人の意志なんだ」  わたしは急に体じゅうがシーンとしびれて、握り拳《こぶし》がガクガクと震えるのを感じた。 「わしは意外な申し分なので、そのうち師匠に会ってよく意向を質《ただ》そうと思っているうちにこんなことになって。……これもまあなにかの因縁だろうが、故人の意志は尊重しなければならぬ。お銀さんに気の毒だが、ここは辛抱してひとつお千さんに譲ってもらいたいのだが……」  わたしは体じゅうが怒りと絶望のために震えた。 「それでわたしはどうなりますの」 「それはおまえさん次第だね、おまえさんが快くお千さんを助けて働いてくれるならそれにこしたことはないが、いやだというならよんどころない。故人の意志にそむくわけにはゆかぬから……」 「わたしを義絶するというのですか、わたしを……いやです、いやです。この家を出るのもいや、八代目を譲るのもいや、だれがなんといっても八代目はわたしがもらいます。はい、もらいますとも。あんまりです、あんまりです。みんなぐるになってわたしを追い出そうというんでしょう。みんな酷《ひど》い、お千ちゃんも酷い、鮎さんも酷い、おっかさんも酷い」  と夢中になってそんなことをしゃべっているうちに、あたりがまっくらになったと思うと、急に耳のなかがガアーンと鳴り出した。わたしはそのまま、気を失ってしまったのである。    謎《なぞ》の血屋敷  わたしはまた広い原っぱを歩いていた。するといきなりお染様の姿が眼前に現われた。わたしはゾッとしたが、急に憎らしさがむらむらとこみあげてくると、持っていた簪《かんざし》でグサッとお染様の咽喉《のど》を突き刺してやった。するといままでお染様だったのが急にお千ちゃんになって、お染様は向こうのほうで、 「ひひひひひひひ!」  と物すごい笑い声、そのとたんハッと眼をさましたわたしは、気がつくといつのまにやら奥の八畳に寝かされているのだ。  会議の席で気が遠くなったところまで覚えているがその先はいっさい夢中だ。たぶんみんなでこの部屋へ担ぎ込んだのだろうが、それにしても何時ごろかしら。夜もだいぶ更けているようだが……と、そんなことを考えていると、ふいに、 「ひひひひひひひひ!」  と低い笑声とともに、どこやらでバッタリ障子を締める音。わたしは思わず跳《は》ね起きた。夢——? いや、そんなはずはない。と、思っているとそのときふたたび、キャッという女の悲鳴。  すわ! とばかりに寝間着のまま縁側へ飛び出すと、そのとたん、スーッと廊下の向こうへ消えていく影。お染様なのだ。振り乱した髪、薄紫の小袖《こそで》、ギロリとこちらを向いた形相の物すごさ、わたしは思わずその場に立ちすくんだが、すぐ気を取り直して追っかけようとすると、足元につきあたったものがある。お鶴《つる》だ。 「お鶴、お鶴!」  と呼ぶと、お鶴はいきなりしがみついて、 「お染様が……」 「馬鹿をお言いでない」 「いいえ、たしかにお染様です。雨戸のところへスーッと立って」 「そんなことがあるものかね。怖い怖いと思っているから、おまえさんの気の迷いだよ。ほら御覧な、なにもありゃしないじゃないか」  そういいながら縁側の端をのぞいていると、そこへ鮎三さんがまた、このあいだのように寝間着の帯をしめながら現われた。 「どうかしたのですか」 「なんでもないのよ。夢でも見たのでしょう」 「そうですか、それならいいがびっくりしましたよ。おや、姉さん、あれはなんでしょう」  わたしはふいにゾッと冷水を浴びせられるような気がした。どこかで呻《うめ》き声が聞こえる。背筋も凍るような物すごい呻き声が。…… 「お千ちゃんじゃないでしょうか」  お鶴の言葉にハッとしたわたしたち、がらりとお千ちゃんの部屋の障子を開くと、まっくらななかからまたもやプーンと鼻をつく異様な匂いだ。 「鮎三さん、電気をつけて、早く、早く」 「よしっ」  とパッとついた電気の光に見ると、お千ちゃんは蒲団《ふとん》から乗り出して、がっくりと首うなだれている。鮎三さんが駆けよって、 「お千ちゃん」  と抱き起こすと、そのとたん、一時にドッと胸先からあふれてきた血潮の恐ろしさ。お千ちゃんはまだ死にきってはいなかった。生と死との最後の段階を彷徨《ほうこう》しているのだ。 「お千ちゃん、しっかりしろ、鮎三だよ。姉さんもここにいる」  その声が通じたのか、眼を開いて鮎三さんの顔を見たお千ちゃん、ニッコリと微笑を浮かべると、いかにもなにかいいたげな様子だ。 「お千ちゃん、だれがこんなことをしたの。さあ、いってごらん、だれの仕業だえ」  お千ちゃんはなにかいおうとしたが、舌がもつれて言葉の出ぬもどかしさ、焦立《いらだ》って、なにか書こうとする。 「ああ、なにか書き残すことがあるのだね。お鶴、その枕屏風《まくらびようぶ》をこちらへ持っておいで」  お鶴がおどおどしながら屏風をそばへ持ってくると、お千ちゃんは胸の血を長|襦袢《じゆばん》の袖にタップリにじませて、震える手で書いたのは、  血屋敷  と、いう三文字。お千ちゃんはそれきり、ガックリと首うなだれた。鴛鴦髷《おしどりまげ》のガクガクと灯の下に揺れているのも悲しげに。    疑 惑  わたしはもう気が狂いそうだ。  お千ちゃんはまたなんだって選《よ》りに選って血屋敷だなんて、あんな気味の悪い文字を書き残したんだろう。この文字になにかわたしたちの知っている以外の、もっと現実的な意味でもあるのだろうか。わたしにはわからない。なにもかもが恐ろしい謎《なぞ》なのだ。  正午前また鵜沢警部がやってこられた。 「また、妙なことが起こりましたな」警部さんはひととおり事情をききとったうえで、 「ところでこの血屋敷という文字だが、なにか思い当たることはありませんか」 「はあ」 「菱川流には昔から、血屋敷という不思議な言い伝えがあるそうですな」 「それについてわたし考えるのですが、お千ちゃんはきっと、自分を殺した者の名を書こうとしたのにちがいございませんわ。鮎三さんが繰り返し、繰り返し尋ねたときに、これを書いたのですから」 「しかし、それが血屋敷というのじゃ、およそ意味がないじゃありませんか」 「それはこうだと思うんですけれど。……つまりお千ちゃんはお染様の幻を見たのにちがいありません、それで犯人はお染様だというつもりで、血屋敷と書いたのではないでしょうか。お染様と血屋敷のあいだには、切っても切れぬ深い関係があるのですから」 「するとなんですな。犯人はやはりお染様に化《ば》けていたというわけですな」  警部さんはしばらくじっと考えていられたが、急に思い出したように、 「ときにお鶴の話によると、昨夜は少々ごたごたがあったそうじゃありませんか」  わたしは思わずドキリとして、 「はい、皆様の仕打ちがあまり酷《ひど》いので、わたくしはカッとしたのでございます。でもそのこととお千ちゃんの死とのあいだには、なにも関係はあるまいと思いますけれど……」 「それはそうでしょう。しかし妙ですな。おとらさんが殺されたときも、あなたとひどく口論した直後だといいますし……」 「まあ、それではわたしの仕業だとおっしゃるのでございますか、あの、わたしの……」 「まあ、まあ、そう興奮なさらんで、だれもあなたの仕業だなんていやアしない。しかしだれが犯人にしろ、いつもその行動があなたの利害と一致しているのは不思議ですな。お千ちゃんが死ねば家元は当然あなたでしょう」 「さあ、それはよくわかりませんが、ほかに適当な人もありませんし、まあそうなるのじゃないかと思っております」 「不思議ですな。犯人はまるであなたのために働いているようだ」  そういって警部さんはじっとわたしの顔を見つめるのだ。あんまりだ、警部さんの疑いはあんまり酷い。——わたしは思わずわっとその場に泣き伏したのだった。  それからのち、どんなにいやな日が続いたことだろう。家のまわりにはいつも刑事さんが彷徨《うろつ》いている。お弟子さんはバッタリ来なくなったし、近所の人もいい顔はしない。そのうちにお鶴まで逃げ出してあとには鮎三さんとふたりきり。——そしてある晩のことである。  夕飯ののち、わたしたちは久しぶりで沁《し》み沁《じ》みと話をした。苦しんでいるのはわたしだけでない証拠に、鮎三さんもすっかりやつれはてて、もとより白い顔が近ごろでは蒼味《あおみ》さえおびて、いっそ物すごいくらいなのだ。 「姉さん、明日は堀を渫《さら》えるんだってね」 「堀を渫えるんだって? なんのためだろう」 「なんのためって、証拠を探すんでしょう」 「証拠? だっておまえさん、家のなかで人殺しがあったのに、どぶんなかに証拠なんかありっこないじゃないか」 「そうでもありませんよ。犯人がなにか捨てていってるかもしれませんからね。ほら、伯母さんときもお千ちゃんときも、二度とも刃物が見つからなかったでしょう。そういう物がひょっと出てくるかもしれませんよ」 「ああ、そうね。なんでもいいから早く犯人がつかまってくれればいい」 「姉さん、おまえさんほんとうにそう思う?」 「そりゃそうさ。だれだってそうだろうじゃないか。それとも鮎三さんはそう思わないの」 「そ、そんなことはないけれど……」  と、鮎三さんはあわてて打ち消すと、 「そりゃ、わたしだってそう思うけど」  と、なんとなく沈んだ調子でそういったが、急にきっと面をあげると、 「姉さん、わたしにだけほんとうのことをいっておくれでないか」 「ほんとうのことってなにさ」 「伯母さんや、お千ちゃんをあのように。……」 「なんだって、鮎三さん、おまえさんそれはなにをいうのだい?」 「なにをって、姉さん知ってるくせに」 「わたしがなにを知ってるというの。え、鮎三さん、これは聞きすてにならない。お前さんの口吻《くちぶり》によると、わたしがおっかさんやお千ちゃんを殺した人を知ってるように聞こえるじゃないか」 「だって。……だって。……」 「だって? なんだい、ハッキリいってよ。こんなことがお巡りさんの耳に入ろうものなら、ただではすまないからね。おまえさんいいたいことがあるなら隠さずにいっておくれよ」 「姉さん」  鮎三さんは涙ぐんだ眼でじっとわたしの顔を見つめていたが、プイと横を向くと、 「大丈夫だ、姉さん、だれもおまえさんを疑ってる人間なんてありゃしない」  と吐きだすようにいう。 「疑られてたまるもんかね」  わたしたちはそれきり黙り込んでしまったが、しばらくして鮎三さんはまたわたしのほうを向き、 「しかしねえ、姉さん、この事件もそう長いことはないと思うよ。明日裏の堀を渫えば、きっと証拠が出てくると思うんだ」 「けっこうだね。なんでもいいからわたしゃ一刻も早く、その憎い犯人の顔が見たいよ」 「姉さん、わたしゃ恐ろしい」 「なにが恐ろしいのさ。犯人がわかるのが恐ろしいのかい?」 「ううん、それも恐ろしいが、お染様の呪《のろ》いというのが恐ろしい」 「なにを馬鹿なことを、男のくせに」 「さいや、占い言い伝えはやはり馬鹿にならないものだ。最初が伯母さん、それからお千ちゃん、この次ぎはきっとわたしだろう」 「馬鹿だねえ、鮎さん、おまえさん今日はよっぽどどうかしてるね」 「そうかしら」  鮎三さんは淋《さび》しげに笑ったが、急に声を震わせると、 「姉さん、ひと言でいいからわたしを可哀そうなやつといっておくれ」  といったかと思うと、いきなり猿臂《えんぴ》を伸ばしてわたしの体を抱きすくめようとする。 「あれ、鮎さん、なにをするのだね」  驚いて跳び退《の》こうとしたが、日ごろの鮎三さんとも思えない、恐ろしい力でのしかかってくる。むっとするような男の体臭が、めちゃめちゃにわたしの鼻や口をふさぐのだ。 「あれ、おまえさん、気でも狂いやしないかい。あれ、だれか来ておくれ」  そのとたんスーッと電燈が消えた。停電はほんの二、三分のあいだだったが、ふたたび灯のついたときには鮎三さんの姿はすでになく、灼《や》けつくような唇《くちびる》の感触がわたしの額《ひたい》に残ったのである。    血屋敷の秘密  その翌日、朝早くから大勢の人夫がやってきて、裏の堀を渫《さら》っているようであったが、わたしは気分が悪かったのでのぞきにも行かなかった。鮎三さんは昨夜飛び出したきり帰らないし、わたしはもうくさくさすることばっかり、寝床を離れるのも大儀だったが、すると正午過ぎ、また刑事さんがやってきて、鮎三さんの部屋からお千ちゃんの居間まで、残る隈《くま》なく捜索してひきあげた。  刑事さんはなにか発見したのだろうか。わたしには見当もつかなんだが、するとその日の夕方わたしはまたもや警察へ呼び出された。養母の死以来、馴《な》れっこになっていることとて、別に驚きもせず、取調室へ入っていくと、お馴染《なじ》みの鵜沢《うざわ》警部が、気のせいかいつもとはちがった緊張の面持ちで控えている。 「やあ、たびたび御苦労ですな」  警部さんは上|機嫌《きげん》で、しばらくとりとめのない話をしていたが、ふと思い出したように、 「ときに妙なことを尋ねますが、お千さんが死ぬ間際に書いた血屋敷という文字ですがね」 「はあ」 「作日、お鶴を取り調べていると、お千さんはあの血屋敷と書くとき、最初、皿《さら》屋敷と書いたそうじゃありませんか」 「そうでございましたかしら」 「そうだそうですよ。いったん、皿屋敷と書いて、あとから人差指に血をつけて、それを皿屋敷という字の上に、べったりと捺《お》したというのですが、御記憶ではありませんか」  なるほど、そういわれればたしかにそうであったような気がする。 「そのことを、なぜ、最初からいってくださらなかったのですか」 「まあ、あとから点を打ったということが、そんなにたいせつなことなんでしょうか」 「そうなんです。これがじつに、非常に重大な意味を持っているのですよ。ときにあなたはこの本に見覚えがあるでしょうね」  警部が取り出したのは五、六冊の草双紙、手にとって見るまでもなく、べっとりと血に塗《まみ》れているところより見て、母の枕《まくら》もとにあった本であることはあきらかである。 「この本は、あの日の夕方貸本屋が持ってきたものだそうですが、そのとき、何冊あったか覚えていませんか」 「はい、よく覚えています。貸本屋さんから受け取ったのはわたしでしたから。たしか全部で七冊あったと覚えていますが。……」 「ところがここには六冊しかないのです。これはわれわれが出張すると同時に押収したものですから、だれかその前に一冊隠したものがあるのです。ところがそのなくなった一冊ですが、どういう本だったか覚えていませんか」 「さあ」  考えてみたが、いちいち調べたわけではないから、サッパリ思い出せない。 「これではありませんか」  警部さんはまた、いきなり別の抽斗《ひきだし》から一冊の本を取り出した。わたしはそのページをくっているうちにハッとした。あの日の夕方母が開いていた挿《さ》し絵《え》をそこに見いだしたからだ。それは腰元が皿を数えている場面で、その草双紙というのは、「播州《ばんしゆう》皿屋敷」なのだ。 「あ、これです、これです。だけどこれどこにありましたの」 「お千さんの居間の天井裏にあったのを、今日ようやく発見したのです。御覧なさい、血のついているところを見ると、おとら[#「とら」に傍点]さんが殺されたとき、この本もやはり枕もとにあったのを、お千さんがとっさのまに隠したのでしょう」 「お千ちゃんが、まあ、どうしてでしょうか」 「それはね、こういうわけですよ」  と、警部さんが開いてみせたのは、腰元お菊が井戸に釣《つ》るし斬《ぎ》りにされている凄惨《せいさん》な場面で、しかもその上には絵の具ならぬほんとうの血がべっとりとついているのだ。警部さんはその挿し絵を指しながら、 「ほら、この指の跡を御覧なさい」  といわれてわたしはハッとした。なるほど、その挿し絵の上方に、血に染まった指の跡が、ちょうどスタンプを捺したようにくっきりと、色鮮やかについているではないか。  これはのちに知ったことだけれど、人間のこの指にある細い筋は、これを指紋といって十人が十人、百人が百人、ことごとくちがっていて、同じ指紋を持った人間は絶対にないのだそうな。そのときわたしはそんなむずかしい理屈は知らなかったが、ひとめ見てそれがだれの指紋であるか覚《さと》った。見覚えのある三日月型の傷の痕! 「あっ、これは鮎三さんの指の痕ですね」 「そうでしょう。つまりお千さんもあの晩、ひと眼でそれと覚ったものだから、とっさのまに、これを隠したのですよ」 「まあ、どうしてでしょう」 「どうしてってわかっているじゃありませんか。犯人——つまり鮎三君をかばうためでしょう」 「まあ! 鮎三さんが犯人ですって!」  そのときのわたしの仰天! 天地が一時にひっくり返ったとてそれほどわたしを驚かせはしなかっただろう。あのおとなしい、気の弱い鮎三さんが、現在の伯母を殺すなんてどうしてそんなことが信じられようか。わたしには信じられぬ。どうしても信じられないのだ。 「だって、だって、それじゃお千ちゃんを殺したのはだれですの?」 「それもやはり鮎三君ですよ。むろんお千さんはそれを知っていたのでしょう。知っていながら、なおかつ鮎三君をかばおうとしたのですね。そこでほら、この血屋敷という文字だが、これはね、つまり皿屋敷の本の上にあなたの指紋が残っているということを教えるために、皿屋敷と書いて、その上に指の跡をつけてみせたのです。それが偶然、血屋敷と誤り読まれたというわけでしょうね」  ああ、聞けば聞くほど意外な話。しかしそう聞けばたしかにそうであったように思えるのだ。お千ちゃんはこの字を書いたのち、何度も何度も念をおすように鮎三さんの顔を見、それからたしかに一度天井を指したようであったが、あれは、そこに証拠の品が隠してあるということを教えるためであったのだろう。 「そうすると、あのお染様の亡霊というのもやはり鮎三さんだったのでしょうか」 「そうですとも、それについてあなたに見てもらいたいものがあるのですが」  と、警部さんが床の上からとりあげたのは、ひとつの風呂敷《ふろしき》包み、開くとなかから出てきたのはグッショリ水に濡《ぬ》れた薄紫の小袖《こそで》に、サンバラ髪の鬘《かつら》、それから血のついた短刀がひとふりと、ほかにびんつけ油の瓶《びん》。 「これは今日裏の堀から見つけたんだが、この小袖や鬘に記憶があるでしょうね」  それはたしかにお染様の亡霊の衣装にちがいなかった。しかしなお念を入れて調べているうちに、わたしは思わずドキッとした。  ああ、いままでなぜそれに気づかなんだのだろう。この衣装は家に伝わっている「七|変化《へんげ》」の踊りのうちの、狂女の振りに使うもので、家宝のようにいつも長持の奥深くしまってあるものなのだ。長いあいだ使わなかったとはいえ、いままで忘れているなんて、わたしもよっぽどどうかしていたにちがいない。警部さんはそれを聞くとたいへんお喜びになって、 「なるほど、それじゃいよいよ鮎三君が犯人だということに間違いありませんね。この衣装を着て、このびんつけ油で片眼を塗りつぶすと、薄暗い場所ではちょうど、顔半分焼けただれているように見えるのですよ」 「しかし、鮎三さんはなんだってまた、そんな恐ろしいことをしたのでしょう」 「それはね。これはわたしの考えだけれど、鮎三君は深くあなたを想い込んでいたのですよ。だからこそ、あなたの邪魔になる人間を次ぎ次ぎと殺していたのじゃありませんか」 「まあ、わたしのために!」  あまりの恐ろしさに思わず絶叫した。ああ、ちがいない。そういえば昨夜のあの奇妙な素振りといい、怪しい言葉の節々といい、そんならこの恐ろしい出来事の原因は、みんなこのわたしにあったのか。  わたしはしばらく、夢に夢みる心地であったが、そのとき慌《あわただ》しくひとりの刑事さんが飛び込んできて、なにやら早口に、警部さんに報告していたが、聞いているうちに警部さんの顔は見る見る真っ赤になってきた。わたしはいまにも大声でどなりつけるのではないかと、ハラハラしていたが、さすがに怒りをおさえつけると、わたしのほうへ振り返って、 「お銀さん、死んだそうですよ」  だれが——? と訊《き》き返すまでもない。わたしはさっと真《ま》っ蒼《さお》になった。 「告白を得ることができなかったのは残念だが、自殺はもっとも雄弁な告白ですからな」  鮎三さんが死んだのだ。鮎三さんが。……  そう繰り返しているうちに、わたしは急に気分が悪くなっていまにも吐きそうな気がした。    恐ろしき発見  鮎三さんが犯人だなんて、そんな恐ろしいことが信じられるだろうか。幼いときからお互いに気性を知りすぎているほど知っているわたしには、まるで夢のようである。  しかし、警部さんがいちいちわたしに示してくださった証拠に間違いのあろうはずがなく、それに鮎三さんの非業《ひごう》の最期が、なによりも雄弁に、その有罪を語っているのだ。  新聞の伝えるところによると神田の友人のところに潜伏中、刑事に捕らえられた鮎三さんは、護送の途中新大橋の上から身を躍らせて川のなかへ飛び込んだところ、ちょうどその下を通りかかっていただるま[#「だるま」に傍点]船の舳先《へさき》で脾腹《ひばら》をうってそのまま絶息したのである。死体はまもなく、佃島《つくだじま》の近所で発見された。  こうして、さしも世間を騒がせた血屋敷事件も、表面一段落ついた形だったが、ああ、なんたることぞ、実際はまだまだ、恐ろしい、意外な秘密がそこに隠されていたのだ。  わたしがここにお話ししようとするのも、じつにその点にあるのだから、皆さん、もう少し辛抱してお聞きください。  鮎三さんが死んでから一ヵ月ほどのちのことです。  なにかの拍子にふと手文庫を開いたわたしは、意外にもそこに鮎三さんの遺書を発見したのである。わたしは思わずハッとして、慌しく封を切って読んでみると、それは次ぎのような簡単な文面だった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  姉さん。  わたしは死にます。伯母とお千ちゃんを殺したという恐ろしい罪を背負ったままわたしは死にます。どうぞ、わたしを可哀そうなやつと思って、たまには御線香の一本も立ててください。  それぐらいのことを要求する権利がわたしにあると思うのです。そのかわり、姉さんの秘密は永久に保たれるでしょう。  御機嫌よくお暮らしください。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]鮎 三   [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  追伸、血のついた姉さんのハンケチをここに入れておきます。これは恐ろしい証拠物件ですから、一刻も早く焼き捨てなさい。それから姉さんの紛失された指輪、あれもきっと離れ座敷にあるにちがいないと思って、ずいぶん探しましたが見当たりませんでした。そのうちにお探しになっておくようお勧めします。そんなものから足がついてはつまりませんからねえ。 [#ここで字下げ終わり]  わたしはこの遺書の妙な文句を、二度も三度も読み返してみたが、どうしてもその意味がよくわからなかった。  ハンケチだの、指輪だのと、これはいったいなんのことだろう。これはいままで、事件に関係ないと思ったので語らずにいたが、養母が殺されたのと前後して、わたしは自分のハンケチと指輪がなくなっているのに気がついた。指輪はルビーの入ったもので、いつも左の薬指にはめていたのが、近ごろめっきり痩《や》せて、どうかすると知らぬ間に抜け落ちることがあった。それが養母の殺されたのと前後して、まったく見えなくなってしまったのだ。  しかし、それとこれといったいどういう関係があるのだろう。第一わたしはあのとりこみにまぎれて、だれにもそのことをいった覚えはないのに、どうして鮎三さんがそれを知っているのだろう。おまけに証拠になるの足がつくのと、まるでわたしが悪いことでもしたような言いかたではないか。 「いやだわ、ほんとうに、人を馬鹿にしているわ」  わたしは血のついたハンケチを見ると、なぜかゾーッと寒気を感じたが、いわれるまでもない。こんな気味の悪い、血のついたハンケチなんか持っていられるものではないから、さっそく、風呂場《ふろば》へもっていって焼き捨てた。  ところがその晩のことである。  わたしはまた夢を見た。お染様の夢である。  広い野原でお染様がおいでおいでしている。フラフラとそのあとについていくと、お染様がここを掘れというので、一生懸命に掘っていると、土のなかからなくなった指輪が出てきたのである。 「まあ、こんな場所に指輪があったわ」  と呟《つぶや》いた拍子に、ハッと眼がさめたが、ああ、そのときのわたしの驚き!  あのときのなんともいえない変梃《へんてこ》な気持ちを、わたしはいまだに忘れることができない。いつのまにやらわたしは、自分の寝床を抜けだして、養母が殺された離れ座敷に来ているのだ。  しかも灰まみれになったわたしの手には、夢でみたと同じように、なくなった指輪を握っているのだ。わたしの膝《ひざ》の前には、養母が殺されたとき枕もとにあった煙草盆があって、そのなかから指輪を掘りだしたらしい証拠は、そこらじゅうが灰だらけになっていることでも知れるのである。  いったいこれはどういうわけだ。どうしてこんなところに指輪があるのだろう。いやいや、それよりももっと大きな疑問は、どうしてわたしがそれを知っているのだろうということだ。  わたしはしばらく呆然《ぼうぜん》として考えていた。考えて考えて、しまいには頭が痛くなるほど考えた。  そうしているうちに、暁の雲を破ってしだいに朝の光がさしてくるように、恐ろしいことのいきさつがだんだんハッキリわかってきた。  ああ、わたしは夢遊病者だったのだ!  幼い時分わたしは、ひどく心配するとか腹を立てるとかすると、夜中にどうかするとフラフラと夢中で起きだす癖《くせ》があった。自分ではもちろん、ちっとも知らないのだが、はたから見ると、正気のときと少しも変わらないので、養母などがずいぶん気味悪がったことを覚えている。  その癖が今夜また出てきたのだ。  いやいや、今夜初めてこの癖が出てきたのだろうか、いままで自分では気づかなかったけれど、もっと以前からときどきこういうことがあったのではなかろうか。たとえば養母が殺された晩だとか、お千ちゃんが殺された晩など。……  そう考えてきてわたしはゾッとした。  ああ、恐ろしい、神様!  養母が殺された晩も、お千ちゃんが殺された晩も、わたしは今夜と同じようにお染様の夢を見た。そして寝床のなかで眼がさめたとき、手足が氷のように冷えきっていて、しかも非常にはげしい運動をしたあとのように、節々が抜けるようにだるかったことをよく覚えている。  自分では少しも気がつかなかったけれど、ひょっとするとわたしは、夜中にフラフラと起きだして、憎い、憎いと思いつづけて眠った養母やお千ちゃんを殺したのではなかろうか。  そうだ、きっとそうにちがいない。  そして養母を殺したとき、指輪が抜け落ちてこの煙草盆のなかへ落ちたのをわたしは夢のなかでハッキリと覚えていながら、眼がさめるとそのまま忘れてしまったのにちがいない。ところが今日鮎三さんの手紙を読んでから、そのことが妙に気にかかり、それと同時に、いままで心の底に押しこめられていた記憶が、夢のなかでふたたび頭を持ちあげ、さてこそまた、フラフラとそれを取り返しにきたのだろう。  子供のときにもこういうことはたびたびあった。夢中でやったことを、眼がさめると忘れていながら、こんどまた発作を起こしたときハッキリと思いだす。そういうことがたびたびあった。  ああ、恐ろしい。それでは養母やお千ちゃんを殺したのは、わたし自身だったのか。  しかし、それでは鮎三さんのあの行動はなんといって説明したらいいのだろう。お染様に扮装《ふんそう》して、他人の眼をくらまそうとするあの奇怪な行動は。——いや、それもいまになってみると、まんざらわからないこともない。  鮎三さんはきっとわたしが母を殺すところを見たのにちがいない。そしてまさかわたしが夢遊病者だとは知らなかったものだから、わたしをかばうつもりで、お染様の亡霊に化けて、お千ちゃんやお鶴さんの前に姿を現わし、疑いをほかへそらそうとしたのだろう。  あの日の夕方、鮎三さんが庭で見たというお染様の幻、あれはむろん鮎三さんのでたらめだったにちがいない。あのとき鮎三さんは、養母とわたしの話を立ち聴きしていたのを、わたしに見つけられたものだから、ついドギマギして、あんなでたらめをいったのにちがいないが、それから思いついてああいうお芝居を打つ気になったのであろう。  そうだ、あの皿屋敷の上についていた指紋だって、わたしが落としていった血染めのハンケチを拾ってくれたとき、ついたものであったろう。  お千ちゃんはお千ちゃんでまた、お染様の亡霊というのが鮎三さんであることを、最初から感づいていたのにちがいない。だから養母を殺したのは鮎三さんだと一途《いちず》に思いこみ、自分がふいに、暗闇《くらやみ》のなかで刺されたときも、それをわたしの仕業だとは知らず、恋しい鮎三さんだとばかり信じて、喜んで死んでいったのだ。  ああ、なんということだ。お互いに疑いあっていると思ったのは、じつにその反対にお互いにかばい合っていたのだった。お千ちゃんは鮎三さんを、鮎三さんはわたしを、お互いに生命をかけてかばっていたのだった。……  ああ、ああ、ああ、ああ!  わたしは少しでもこの考えに、不条理なところや、不自然なところはないかと考えてみた。しかし、考えれば考えるほど、そうとしか思えなくなってくる。  わたしは寝間着のまま、朝までそうして考え続けていた。やがて夜が明けて、輝かしい太陽が出てきた。しかし、わたしの頭には依然として、あの恐ろしい、まっくろな疑惑が、煙突の煤《すす》のようにこびりついているのだ。  やがて日が暮れ、ふたたび夜が明けた。しかしわたしは依然として同じことを考え続けている。三日たった。一週間たった。しかしわたしの考えることは依然としてかわらない。  ああ、皆さん、世のなかにわたしのように恐ろしい疑惑に責められた人間が、ほかにあるだろうか。語るによしなく、解くによしなき、この恐ろしい、絶望的な疑惑。  十日たった。  そしてわたしはもう骨と皮ばかりになってしまった。しかし、その時分からわたしの心にはしだいに、明るい黎明《れいめい》の光がさしてきたのだ。  わたしのような人間のとるべきただひとつの途《みち》、それがようやくわたしにハッキリとわかってきたからだ。死。——これよりほかにわたしのような人間のとるべき方法があろうはずがない。  少し前にわたしはとうとう毒を嚥《の》んでしまった。  しかし、わたしはいま少しもそのことを後悔などしてやしない。わたしはもうなにもかもお話ししてしまった。この上は筆をおいて静かに死の訪れを待つばかり。  ああ、しだいにあたりが暗くなってくる。体が深い谷底へ引きずりこまれるようだ。さあ、眼をつむろう。眼を閉じればありありと浮かんでくるのは、身をもってわたしをかばってくれた、あの優しい鮎三さんの顔。  鮎三さん、鮎三さん!  わたしもすぐにおそばへまいります。ま——い——り——ま——す。 [#改ページ] [#見出し]  面《マスク》  私はその時、ある洋画展覧会の会場にいたのである。  陰気な花曇りの、なんとなくうすら寒さを覚えるような午後のことで、そういうお天気のせいか、会場にはごくまばらにしか、人影を見ることができなかった。  絵を見るということはひどく疲れるものである。傑作が多ければ多いように愚作が多ければ多いようにちがった意味で、それぞれ疲労を感ずるものである。  目録を片手に、かなり丹念《たんねん》に一室一室を見て回った私は、まだ半分も見終わらないうちにぐったりと疲れを感じた。傑作が多すぎたせいであったか、それともその反対の場合であったか、いま私はよく思い出すことができないが、とにかく私はその時、疲労した体をとある画廊のベンチの上に憩《やす》めていたのである。  前にもいったように、その日はひどく入《い》りが少なかった。私はおよそ半時間あまりもそうしてぼんやりとベンチに腰をおろしていたのであるが、そのあいだに、私の前を通り過ぎていった人々の数は、ほんのわずかしかなかった。みんな黙々として、足音を偸《ぬす》むように私の前を通り過ぎてゆく。それが、その日の鬱陶《うつとう》しいお天気とともに、妙に物憂《ものう》い印象を与えるのだった。  私はそのとき、なんの気もなく、ベンチの真正面にかかっている絵をながめていた。それはこの展覧会における呼び物の一つで『起請《きしよう》』という題がついているちょっと変わった絵なのである。  非常に美しい散切《ざんぎ》りの少年が遊女と取り交わす起請を書きあげて、その上に血に染まった小指の痕《あと》を捺《お》しているところだった。画題からいえばひどく古風な、むしろ浮世絵風なものなのである。画家はそれを、おそらく故意にそうしたのであろうが、ひどくクラシックなタッチで描いていた。そして、セピアのかった色彩の配合が、そういう頽廃《たいはい》的な画題によく調和して、妙にしらじらとした、侘《わ》びしい印象をかたちづくっている。  暗く塗りつぶした画布の上に、ほんのりと浮きあがっている少年の顔の妖《あや》しいまでの美しさ、起請|誓紙《せいし》の上にくっきりと色鮮やかに捺された、紅《くれない》の小指の痕を見ながら、にっと艶《あで》やかに微笑《わら》っているその頬《ほお》の、寒気を誘うような妖しい麗しさは、必ずしもその日の、妙に遣瀬《やるせ》ないお天気のせいばかりではなかったであろう。 「あなたはあの絵をどうお感じになりますか」ふと耳もとにそうささやく声に、驚いて振り返ってみると、いつの間にか、私の腰をおろしているベンチのそばに、一人のひどく醜い老人が立っていて、その絵の上をじっとながめているのである。  実際その老人のあまりにひどい醜さは、私に嫌悪《けんお》の情を起こさせる前に、私の心をヒヤリと冷たくおびえさせたくらいだった。黄色くかさかさにしなびた皮膚の色、無数の細かい縮緬皺《ちりめんじわ》、平たい鼻、大きな口、そういう顔が私と並んで、薄暗い廊下の片隅《かたすみ》に浮いているのを見たとき、私は心臓に冷たい刃物を当てられたような、無気味さを感じたものである。 「妙な絵だとはお思いになりませんか、なんだか、気味の悪くなるような絵だとはお思いになりませんか」  老人はそういって、はじめて真正面から私の顔をながめた。そのとき、私はなぜかハッとしたのを覚えている。というのは、その老人の眼を、私は前に、どこかで一度見たことがあるような気がしたからである。それは顔のほかの部分に似げなく、妙に若々しい、ぬれたような眼差《まなざ》しだった。  いつ、どこで私は、この眼を見たのだろう。それは私の頭に、非常に鮮やかな印象となって残っていながら、それでいて、どこで見たのであったか、思い出すことのできない眼つきだった。  老人はそういう私の気持ちなどに頓着《とんちやく》なく、並んで腰をおろすと、なんとなく悲しげに、しかしまた、どこか昂然《こうぜん》とした様子で、この不可思議な絵の面《おもて》を凝視しているのだった。 「あなたも、この絵をかいた人物についてご存じでしょうね」 「ええ、新聞で読みましたけれど……」  だれだって、およそこの展覧会に足を踏みいれるくらいの人間で、この『起請』をかいた画家の名を知らぬものはなかったであろう。それは画家としてはまったく素人《しろうと》であったが、社会的にかなり有名な婦人だった。いや、その婦人が有名であるというよりも、婦人の夫という人が有名だったのである。  綱島博士《つなしまはくし》は整形外科の一大権威である。そして、その若く美しい夫人の朱実《あけみ》というのが、この問題の絵の作者だった。 「世間では、綱島博士を魔術師とよんでいますが、あなたはその理由をご存じですか」  この話好きな老人は、そういって横から私の顔をのぞきこむようにするのである。 「いいえ」  私はこの、少しばかり狎《な》れ狎《な》れしすぎる老人に向かって、できるだけ言葉少なに答えた。  私は別に、その老人に対して不愉快を感じていたわけではないが、その日の妙に物憂い天候と、この妖しい絵の印象が、いくらか私を瞑想《めいそう》的にしていたのにちがいない。なるべくなら私はそのまま、そっとしておいてもらいたかったのであるが、さりとて、この老人の物語を聞くのがいやでもなかった。 「あの男は、ほんとうに魔術師ですよ。いや、世間が信じているよりも、はるかにすばらしい魔術師なんですよ。幸いここは静かだし、そしてこの調子なら、もうあまりたくさんの人もやってきますまい。ひとつ、綱島博士の魔術師ぶりというのを話してあげましょうか。それはまた、同時にこの絵の由来にもなるのですから」  老人はそういって、私の気持ちなんかにお構いなしに、次ぎのような奇怪な話をはじめたのである。  老人がいったように、この陰鬱《いんうつ》な黄昏《たそがれ》の、乏しい光線は、絵を鑑賞するのに不適当なせいだったのであろう、ついに一人の人間も、老人の物語を妨げることはなかったのである。  鱗三《りんぞう》はふと、くらがりの中で眼をさました。からだじゅうがシーンとしびれて、なんともいいようのないほどの不快さが、腹の底から、ジ、ジーンとこみあげてくるのだ。  いったい、ここはどこだろう。どうして自分はこんなところにいるのだろう。  鱗三はかすかに身動きをしようとしたが、その拍子に、手足がバラバラに抜けてしまいそうな、気《け》だるさを感じた。こめかみがズキズキと鳴って、体じゅうが燃えるように熱いのである。 「おや、おれはどうしたのだろう。病気にでもなったのかしら」  鱗三はぼんやりと、そんなことをつぶやきながら、もう一度、子細にあたりを見回したが、黒の一色に塗りつぶされた闇《やみ》の中からは、何を発見することもできない。耳を澄ますと底知れぬ静けさか、胸をかきむしるように迫ってくるのである。  鱗三はふいにドキリとした。心臓が激しい湿気に遭《あ》ったように鳴りだした。  自分は死んでしまったんじゃないかしら。そしてここは墓の中ではないだろうか。  その考えは、鱗三を恐怖に導くに十分であった。しばらく彼は麻痺《まひ》したように、じっと息をひそめていたが、突然、非常な勢いで、自分がいま横たわっているところから起き直ろうとしたが、そのはずみに、ガチャガチャと、鎖の触れあうような音がしたと思うと、彼の体はドシンと、もとのところに投げだされてしまったのである。  鱗三はハッとした。しばらく、茫然《ぼうぜん》として闇《やみ》の中を凝視しつづけていた。心臓が咽喉《のど》のところまでふくれあがって、ハアハアという激しい息使いが、我ながら小うるさいまでに耳についてくる。やがて彼は、おそるおそる体を起こすと、手を伸ばして足首を触《さわ》ってみた。彼の指は冷たい鉄の環《わ》に触れた。足首には太い鎖がはまっているのである。  彼は鎖につながれているのだ!  鱗三は突然、頭髪の逆立《さかだ》つような恐怖にうたれた。  いったい、どうしてこんなことになったのだろう。だれがこのようなことをしたのだろう。  鱗三は忙しく自分の周囲を触ってみた。すると、彼がいま横になっているのは、冷たい革張りの寝台であるらしいことがわかった。虚空《こくう》をかき回してみたが、どこにも彼の手をさえぎる障害物はない。つまり彼はかなり広い部屋の中の、革張りの寝台の上に、鎖でつながれているらしいのである。  棺桶《かんおけ》の中にいるのでなかったらしいことが、それでもいくぶん、鱗三を安心させるのに役立った。それで彼は、できるだけ落ち着いて、いままでのことを考えてみようと試みた。頭が乱れて、なかなか思うように考えがまとまらなかったけれど、それでも彼は次第に、意識を失う直前のことを思い出すことができた。  まず第一に、彼の意識によみがえってきたのは、眼を射るばかりの、パッと明るい緑色だった。それは陽当《ひあ》たりのいい、温い部屋の中で、彼はそこで、美しい婦人と差し向かいになっていた。 「だめ、動いちゃだめ、もう少しですから辛抱していてちょうだいよ」 「だって、ぼく、すっかりお腹《なか》がすいちゃったんだもの」 「いい子だからね、もう少し辛抱してちょうだいよ。そうすれば、あとで御褒美《ごほうび》に、うんと御馳走《ごちそう》してあげますわ」  女はそういいながら、自分の前に立てかけてあるカンバスの上に、せっせとブラシを走らせている。  早春の柔らかい陽差《ひざ》しに縁取《ふちど》りをされたその横顔を、モデル台の上から偸《ぬす》み見しながら、なんという不思議な女だろうと鱗三は考えていた。  女は鱗三より三つ四つ年上の、二十五、六という年ごろであった。黒い瞳《ひとみ》の中に、譬《たと》えようもないほどの知恵と、愛情と、残忍さを秘めた、ちょっとその魂をとらえかねるような、不思議な性格をもった女なのである。  どうしてこんな美しい、利口な女が、あのような年老いた、よぼよぼの夫を持っているのだろうと思うと、鱗三はいかにも不思議でならないのである。たとい、相手がいかに有名な偉い学者であろうとも、そういうことに惑わされそうな女とも思えないのに。—— 「まあ、何を考えていらっしゃるの?」  気がつくと、女は三脚から離れて、遠くから、カンバスの上をしげしげとながめている。それからまだ意に満たないところを発見したのであろう。絵の具をまぜ合わせながら、二、三度首をかしげかしげ、ブラシを走らせていたが、それでやっと満足したように、パレットと筆を、床の上に投げだした。 「できた?」 「ええ、やっと」 「じゃ、もうここを離れてもいいね」 「ええ、いいわ、無罪放免よ」 「その絵、見てもいいのかい?」 「ええ、どうぞ。だけど、ほんとうをいうとまだすっかりできあがったというわけじゃあないの。でも、後はあなたに手伝っていただかなくっちゃあ……」  鱗三は女のそばによってカンバスの上をのぞきこんだ。正直のところ、鱗三はその絵を見るのは、その時がはじめてだった。女がすっかりできあがるまで見ちゃいけないと、彼の見ることを禁じていたのである。  鱗三がその絵を見た瞬間の印象を率直に述べるならば、それはある恐ろしい戦慄《せんりつ》的な気持ちだった。なんのために戦慄したのか知らない。が、ともかく、彼はぎゅっと心臓をしめつけられるような、不安な戦慄を感じたのである。 「ほほう、こりゃ、妙な絵だね。いったい、何をしているところなの」 「これ起請《きしよう》を書いてるところなのよ。愛人と取り交わす起請誓紙を書いてるところなのよ」 「起請——? だって、その愛人というのはいないじゃないか」 「ええ、絵の中にはいなくてもいいの。ちゃんと、ここにいるから」  女は自分の鼻を指さしてみせると、悪戯《いたずら》っ児《こ》らしくにっ[#「にっ」に傍点]と微笑《わら》ってみせるのである。 「ふうん」  鱗三は子細らしく、鼻の頭に皺《しわ》を寄せると、 「うまく、いってらあ」  と、女の美しい髪の毛を見おろしながらいった。  鱗三がこの女と懇意になってから、もう三|月《つき》も経っていた。彼はかなり性《たち》の悪い不良だったから、知り合ってから三月も一人の女を完全に手に入れることなしに過ごすということは、いままで、ほとんど類例のないことだった。  彼はこのあいだから、なんともいえないほどのいらだたしさを感じている。女のほうもちゃんとそのことを知っているのだ。知っていながら、不思議な手管《てくだ》で、彼の指の間から巧みにすり抜けてゆくのである。 「絵ができあがったら!」  それが鱗三の唯一の希望だった。そして今日という今日は、待望の絵ができあがったのである。 「ね、いいだろう」  鱗三がすり寄って、腰を抱こうとするのを女はするりとすり抜けると、 「まだよ」  そういって、女は細い針を手にとりあげた。 「あなたの血を少しちょうだいな」 「血を……」 「ええ、そうよ。起請には血判を捺《お》すものなのよ。ここんとこに余白がとってあるでしょう。その上へ、あなたの血で、小指の痕《あと》を捺してちょうだいな。そうすれば、この絵はできあがったことになるのだわ」 「だって」 「恐ろしいの、何も恐ろしいことはありゃしないわよ。さあ、右手を出してちょうだい」 「ほんとうに血を出すのかい」  鱗三がおずおずと差し出した手をとらえると、女は容赦なく、チクリと小指を針でさした。 「あ、痛ッ!」 「痛かった? もういいのよ。さあ、それでここんとこへ指の痕を捺してちょうだいな」  薔薇《ばら》色をした鱗三の小指の先から、南京玉《なんきんだま》ほどの、紅《あか》い血が美しく盛りあがっている。女はその血を小指の先全体に塗ってやりながら、 「さあ、それをここんとこに一捺ししてちょうだい」  そういって、鱗三の小指をつかむと、カンバスの上の、起請誓紙の端へ持っていった。 「これでいいかい」 「ああ、けっこうだわ。とうとうできたのね」  カンバスの上に残った薄紅《うすくれない》の小指の痕をながめながら、女は恍惚《こうこつ》としたようにつぶやいた。それから、急に眼を輝かすと、 「ね、あなたどうお思いになって、私、これを展覧会に出すつもりなのよ。私たちのこの恋のしるしを、人々の眼の前に公開してやろうと思うの。この絵の上にある起請は決して絵空事《えそらごと》じゃないのよ。これこそ、あなたと私との間に取り交わした恋の誓紙なのよ。だけど、こうして絵にしておくと、だれだってそうとは気がつかないでしょう。あの陰険で、疑いぶかい夫だって、こうしておけば、おそらく何も気がつかないで済むにちがいないわ。ああ、なんといううれしいことでしょう。あの人といっしょになって以来、はじめて私はあの人を馬鹿にしてやることができるのだわ。しかもあの人の鼻先に、この絵がぶら下がっているのに、あの人はそれを知ることができないのだわ」  鱗三はいささか激しすぎる女の情熱に、圧倒されたような形だった。鱗三といえども、この女が夫である綱島博士を憎んでいることはとっくより承知していた。しかしそれがこのように、病的で、熱烈なものだとは夢にも気がつかなかった。鱗三はいくらか気味が悪くなったのである。 「まあ、何をしていらっしゃるの、いまさらになって、あなたは尻《しり》ごみをなさるの。さあ、いまこそお約束を果たしましょう。ここへ来て、私の体を抱いてちょうだい……」  ——鱗三はいま、くらやみの一室の中でそこまで思い出すことができた。  さて、それから、どういうことになったろう。……そうだ、自分は女を抱こうとした。すると、その時、綱島博士が帰ってきたのである。女はそれを知ると、極度に狼狽《ろうばい》して、無理矢理に自分をかたわらの洋服|箪笥《たんす》の中へ押しこんだ。  そこまでは覚えている。  が、それから先が朦朧《もうろう》として、意識のほかにはみだしてしまっているのである。洋服箪笥の中はとても窮屈で、息苦しかった。声をあげようかと思ったが、もし、博士に見つけられたらどうなるだろうと思って、苦しいのを我慢して、じっと辛抱しているうちに、とうとう気を失ってしまったらしいのである。  鱗三はふいにぎょっとして、固い革製のべッドの上で体をかたくした。  まっくらな部屋の外から、軽い足音が聞こえてきたからである。足音は部屋の前で止まったらしい。カチッと鍵《かぎ》を回す音がした。と、思うと、扉《ドア》が静かにひらいて、鈍い鉛色の光がさっと部屋の中へ流れこんできた。その四角な光の枠《わく》の中に浮きあがった人物の姿を見たとき、予期しないことではなかったが、鱗三はやはりドキリとした。綱島博士であることが、ハッキリわかったからだ。 「おや」  博士は扉のそばにある電燈のスイッチをひねると同時に、軽い叫び声をあげた。それから髯《ひげ》だらけの顔を、微笑に崩しながら、 「気がつきましたな」  と、意外に狎《な》れ狎《な》れしい言葉である。  鱗三はそのときはじめて、部屋の中を見回した。そこは綱島博士の手術室なのである。 「どうしたのです。私はどうしてこんなところにいるのです。なぜ、鎖でなんかつながれているのです」 「いや、なんでもないのです。きみはちょっと病気だったんですよ。しばらく安静にしていなければならぬ必要があったのに、あばれ回って困ったもんだから、そうして鎖でつなぎとめておいたんです。でも、いいぐあいに早くよくなってよござんしたね。さあ、鎖をといてあげましょう」  博士は無造作《むぞうさ》に鍵をとりだして鎖をとくと、 「気分はどうですか」 「ありがとうございます。大したことはありません」 「それはけっこうです。起きてごらんなさい」  鱗三は革製のべッドから起きあがったが、なんとなく手足がけだるいような感じのほか、別に変わったところもなかった。 「まあ、そこへお掛けなさい。ちょっと話をしようじゃありませんか」  鱗三はドキリとした。  話というのはなんだろう。朱実《あけみ》夫人とのことであろうか。それにしてもいったい夫人はどうしたのだろう。なぜ、ここへ姿を見せないのだろうか。 「ええ」  鱗三はなんとなく不安を感じながら、しかし逆らうと何かしら、もっとよくないことが起こりそうで、おずおずと示された椅子《いす》に腰をおろした。  妙な部屋で、真っ黄な壁紙を張った壁際には大きな長方形のガラス戸棚《とだな》が置いてあって、その中には石膏《せつこう》で作った人の首が、たくさん並べてあった。  鱗三はその、妙に白々《しらじら》としたおびただしい石膏の首を見た刹那《せつな》、なんとなく、背筋が冷たくなるような気味悪さを感ずるのだった。首の中には、女もあれば、男もあった。 「お話というのはほかでもありません、朱実のことですがね」  綱島博士は髯《ひげ》だらけの顔から、ちらと真っ白な歯をのぞかせながら、 「きみは、あれをどう思っているのですか」 「どう思うって?」  鱗三は博士の冷たい、鋼鉄のような眼を見ると、あわてて視線をそらしながら、 「別に、どうといって……」 「いやいや、隠さなくてもよござんすよ。私は何もかも知っているのです。朱実がかいたきみの肖像画のことも、それからあの不思議な恋の起請《きしよう》のことも。——で、きみは朱実をどういうふうに考えているのですか」 「そうですか、そういうふうに何もかも御存じなら、隠したってしようがありませんね」  鱗三は大胆に、博士の顔を真正面からながめながら、 「それじゃ、万事率直に申しあげましょう。私は奥さんを愛しています。そして奥さんも……」 「妻も?」 「奥さんも、私を愛していてくださると信じます」  ちらと、残忍な薄ら笑いが博士の唇《くちびる》の端に浮かんだ。 「きみは、自信をもってそういいきることができますか。彼女《あれ》がきみを愛しているということを。………」 「むろんですとも……」 「なるほど、しかし、きみは果たして彼女《あれ》のことをよく御存じですかねえ。彼女《あれ》はねえ、鱗三君、あの女は一種の化《ば》け物《もの》ですよ。きみはそのことを御存じですか」 「化け物ですって、奥さんが。……それはいったいどういう意味なのですか」 「きみはあの女の素性をご存じかね。私と結婚する以前、何をしていた女だか知っていますか。知らないでしょう。いや、知らないのはきみばかりじゃないのです。世の中にそれを知っている者は一人だっていないのですからね」 「どういう意味ですか、それは……もっとハッキリおっしゃっていただけませんか」 「つまりね、あの女は私と結婚するまで、この世に存在しなかった人間なんです。いいかえれば、あの女はかくいう私が創造《つく》りだした人間なんですよ」  さっきから意気込んで聴いていた鱗三は、ここに至って茫然《ぼうぜん》たらざるを得なかった。  朱美の身辺にまつわる一種不可思議な空気については、鱗三もとっくより気がついていた。スフィンクスのように、深い謎《なぞ》を秘めた女なのである。  女というものはとかく身の上ばなしをしたがるものだ。だから、女の過去を知るくらい容易なことはないと信じている鱗三は、朱実の泥のようにかたくなに閉ざしている唇を見るとなんともいえない焦燥を感じることがあった。その謎をいま、博士の口より解いてもらえるのだと、きおいこんでいたのに、話があまり途方もないので、呆気《あつけ》にとられた形だった。鱗三はしばらく、相手の正気《しようき》を疑うように、じっと沈黙をまもっていた。 「いや、きみが疑うのも無理はない。あるいは私の言いかたがまずかったかもしれないが、きみは魔術ということを信じますか」 「…………」 「私はその魔術師ですよ。いやいや、まあもう少し黙って聴いていてください。私のいう魔術というのは、神話にあるような、荒唐無稽《こうとうむけい》なものじゃない。立派に科学的根拠のある魔術なんです。きみは私の、整形外科における偉大な名声を知っているでしょう」 「知っています」  鱗三は一種の恐怖を眼に浮かべながら答えた。 「私は主として、顔面整形外科ですが、私のメスにかかると、低い鼻を高くしたり、一重瞼《ひとえまぶた》を二重瞼にしたり、眼尻《めじり》を切れ長にしたり、顔面に、体のほかの部分の皮膚を移植して色を白くしたり、そういうことは朝飯前なんです。いやいや、もっとすばらしい、お話ししても信じられないような手術だって平気でできます。ところが、これらの手術を全部やってくれという人間はほとんどない。たいてい鼻の低い人間は、それを高くしてくれとか、一重瞼の人間はそれを二重にしてとか、そういう部分的な依頼しかない。それにもかかわらず世間では私のことを魔術師と呼び、私を目《もく》して醜《しゆう》より美を生むミラクルマンだといっています。そういう私が、もし、蘊蓄《うんちく》を傾けて、一人の人間の顔面に、あらゆる手術を施したとしたら、どういう結果になると思いますか。いままでとはまったく変わった、別人が新しく生まれてくるとは思いませんか」  綱島博士はそこで立ち上がると、壁際にあるガラス張りの戸棚の中に並んだ、さまざまな石膏の胸像《トルソー》を指した。 「御覧なさい。ここにある石膏像が私の魔術をよく説明してくれます。ここにいる人々は、それぞれ秘密の理由から全然新しく生まれ変わろうと決心して私のもとへやってきた人たちです。私はこうして、記念のために手術前の面《マスク》と手術後の面《マスク》とを胸像《トルソー》として残してあるのですが、今まで一度だってこれらの被手術者から、その前身を看破されたという苦情を受けたことはありません。この中には、殺人犯人として官憲から、厳重な追跡を受けている人物もありますが、しかも彼は、私の手術のおかげで、平然と大手を振って街頭を闊歩《かつぽ》しているんですよ」  博士は髯だらけの顔の奥から、無気味に皓《しろ》い歯をのぞかせて、チラリと微笑《わら》った。それは聴く者をゾッとさせるような、冷たい、惨酷な動物的なともいうべき微笑だった。  鱗三は、次第に博士のいおうとするところがわかってきた。彼は思わず、ギョッとしたように息をのんで、 「それじゃ、もしや朱実さんも……」 「そうですよ。やっと合点《がてん》がいったようですね。あの女も、私の手術によって新しく生まれ変わった人間なんです。ほら、ここに二つの胸像《トルソー》がありますが、これが朱実の手術の前と後におけるそれぞれの面《マスク》です。手術の後の面《マスク》はむろんご存じでしょうが、ひょっとすると手術前の顔もご存じかもしれませんね」  博士はガラス張りの戸棚の中から二つの胸像《トルソー》を出して並べた。その一つはいうまでもなく、この日ごろ馴染《なじ》んできた朱実夫人の顔である。が、他のもう一つの顔をみているうちに、鱗三は突如、激しい惑乱を感じた。彼は思わず、ガラス戸棚に身を支えながら、ゴクリと大きく唾《つば》をのみこんだ。  彼はこの女を知っていたのである。いやいや、だれだってこの女を知らぬものはないはずだ。  それは、二、三年前まで、非常な人気を持っていた、さる高名な映画女優だった。そしてこの女はある愛の葛藤《かつとう》のために、これまた有名だった男優を殺して、三原山で身投げ自殺を遂げたと信ぜられている女なのである。 「ああ、それじゃ。これが朱実さんの……」 「さよう、これであの女が、どうして私のような老人の妻になっているかわかるでしょう。好むと好まざるとにかかわらず、あの女は私から独立して生活することのできない女なのです。もし、私を怒らせたら、どういう恐ろしい結果になるか、賢明な女のことだから、それはよく知っているのですよ」  鱗三はしばらく憑《つ》かれたような顔をして、じっと、二つの石膏の面《マスク》をながめていたが、ふいにゲラゲラと笑いだした。一種気違いじみた笑いだった。 「冗談でしょう。先生、たぶん私をからかっていらっしゃるのでしょう」 「そう、お思いになるかね」 「だって、話があまり突飛なんですもの。私はこの映画女優をよく知っていましたがね、朱実さんとはあまり違いすぎますよ。あの二人が同じ人間だなんて、私にはとても信じられませんねえ」 「それじゃ、きみは、私の手術を疑うのかね」 「先生の名声はよく承知しています。しかし、こればかりは話があまり奇抜ですからね。朱実さんが、あの殺人犯の映画女優ですって。いや、どうも、冗談もここまでくると傑作ですね」 「よろしい」  突然、博士がきびしい声で、 「きみがそれほど疑うなら、私のすばらしい魔術の実証をいま、眼《ま》のあたり見せてあげることにしよう。醜より美を生むばかりが、私の仕事の全部じゃない。美より醜を作りあげることも、私の仕事の一つなんです。しかも、そこに、なんらの破壊のあとをとどめずに、生まれながらの醜い容貌《ようぼう》に作りあげるのが、私の自慢なんでね」  綱島博士は、そういいながら、突然鋼鉄のような手で、しっかりと鱗三の腕をとらえた。 「さあ、この鏡の中をのぞいてごらん。きみのその、自慢の容貌が、どのように変化しているか、私の手術がどのようにすばらしいものであるか、きみにも納得《なつとく》がいくことだろう」  鱗三は、博士の眼の中に燃えあがっている恐ろしい火を見た。それから彼は、おそるおそる突きつけられた鏡の中をのぞきこんだ。  後になって鱗三は、なぜあの時自分は、あのまま、石になってしまわなんだろうと、どれだけ口惜《くや》しく思ったか知れないのである。薄暗い鏡の中に、朦朧《もうろう》と浮かびあがった顔——それはなんという、呪《のろ》わしい、忌ま忌ましい化け物であったろうか。皺《しわ》だらけの、しなびたような、カサカサとした黄色い皮膚。平たい鼻、大きな厚い唇《くちびる》。——ああ、これが自分の顔なのか!  そう思った刹那《せつな》、鱗三は突然、黄色い壁紙がくるくると回転するような気がした。意識がめちゃめちゃに乱れて、眼の前に五彩の花火が乱れとんだかと思うと、そのまま、彼の意識は朦朧としてぼやけていったのである。 「このような馬鹿馬鹿しい話を、あなたはとてもお信じにならないでしょうね」  話し終わってから、醜い老人は私の顔をのぞきこむようにしてつぶやいた。  私はゾッと全身に鳥肌《とりはだ》の立つような恐怖を感じた。老人の年に似合わぬ若々しい、ぬれたような瞳《ひとみ》を、その時、ハッキリと思い出すことができたからである。それは、あの壁にかかっている美少年の眼と同じだったのだ。  画廊はすでに、すっかりたそがれの色につつまれて、窓にかぶさった鬱陶《うつとう》しい青葉のあいだから、鈍い鉛色の空の一部分がのぞかれた。 「いやいや、あなたが信ずることのできないのも、決して無理じゃありません。だれだってあそこにかかっている、あの美しい少年と、私のような醜い老人が同じ人間だといって、それをそのまま信じることができましょうか? しかし、私の話はまったく偽りのない、正真正銘の事実なんです。私はいまその証拠をあなたにお見せすることができます」  老人はそういって、懐中からナイフをとりだすと、それで腕を傷つけ、そしてその血を小指の先につけると、ぺッタリと鼻紙の上に押しつけた。 「さあ、この指紋と、あの絵の上の指紋とよく見比べてください。あなたも、同じ指紋を持った二人の人間が、絶対にありっこないことをご存じでしょう」  私は興奮と恐怖のためにわなわなと震えながら、いわれるままに絵のそばへ寄って、老人に渡された鼻紙の上の指紋と、あの美しい少年が、起請の上に捺《お》した指紋とを見比べてみた。そして、|逢魔ケ時《おうまがとき》の乏しい光線の下であったけれど、二つの指紋に一|分《ぶ》一|厘《りん》の狂いもないことを、ハッキリと認めることは、そう大して困難なことではなかったのである。 [#改ページ] [#見出し]  身替わり花婿    アーサー上等の酒に陶然とすること  禍福はあざなえる縄《なわ》のごとしとか申しましてとかく吉《よ》いあとには凶《わる》いことがあります。しかし人生凶いことはつづきはしない。いつかはまた、いいこともございますから、近ごろ運が悪すぎるなんて、早まって三原山だの青酸カリなどはよろしくございませんようで。ここに英京ロンドンにその名をアーサー・ルランと申す男、もとはさる帽子店に勤めておりましたが、ふとした過失より馘《くび》となり、爾来《じらい》、いろいろとつて[#「つて」に傍点]を求めて就職口を探しておりますが、なにしろ不況のおりからとて、なかなかうまい口もございません。わずかばかりの蓄えも使い果たし、不義理な借金はかさむ、ついには住みなれた下宿も追われて、いまでは毎夜|河岸《かし》通りのベンチで野宿をするというまことに果敢《はか》ない身の上。  ○「兄弟《きようだい》、いやにぼんやりしているが、どうかしたのかい?」  ア「ぼんやりもするよ。今日は朝から碌《ろく》におまんま[#「おまんま」に傍点]も食わねえのだもの」  ○「フーム、見ればおまえはまだ新米《しんまい》のようだが、この寒さに空《す》き腹じゃさぞ体にこたえるだろう。幸いここに食い残しのパンの破片《かけら》があるから、これでも食べておきねえ」  ア「よそう。せっかくおまえが明日《あした》の楽しみにと取っておいた物を横取りしちゃ悪いやな」  ○「何を言やがる。そんな遠慮は禁物だ。この次ぎにはまたどのようなことでおれのほうがやっかいになるか知れたものじゃねえ。世の中はとかく回り持ちだ。潔《いさぎよ》く受けてくんねえな」  ア「そうかい。兄貴、そいつは済まねえな」  こういう連中には、普通の人にはわからぬ同志愛というものがあるらしく、親切な仲間が恵んでくれたパンの破片で、わずかに飢えをしのいだアーサーが、ベンチの上でとろとろとしかけたおりから、やってまいりましたのは御年輩の一紳士。太い灰色の髭《ひげ》を生やした御老人でございますが、不思議なことにこの老人、ベンチの上に野宿をしているルンペンの前まで来ると、いちいち立ち止まっては懐中電燈の光で顔をながめておりますが、何が気に入らぬのかそのたびに口の中で小言をいっております。やがてアーサーのところまで来ると、例によって懐中電燈でしげしげと、その顔をながめておりましたが、にわかに満足そうな微笑を漏《も》らすと太いステッキでつつきながら、  紳「こら、起きろ、起きろ」  言われてハッと眼を覚ましたアーサー、また巡回のお巡りさんかと思ったから、  ア「旦那《だんな》、どうぞ御勘弁なすって」  紳「なんだ、勘弁しろ? 貴様何かおれに謝らねばならんようなことをしたのか」  ア「そういうわけじゃございませんが、それじゃ旦那は警察のかたじゃございませんので」  紳「ははあ、貴様よくよく警官が怖いとみえるな。安心せい、おれは警察の者じゃない」  ア「へえ」  紳「警官じゃないから安心しろと申しているのだ」  ア「へえ、さようで。それでは真っ平ごめんなさいまし」  と、安心したアーサーがまたもやゴロリと横になろうとするのに驚いた件《くだん》の紳士。  紳「これこれ、どうしたものだ。人が話しているのに寝るやつがあるか」  ア「まだ何か御用がございますので」  紳「用があるからこそ起こしたのだ。不届きなやつだ。貴様、金儲《かねもう》けはしたくないのか」  ア「金儲け、へえ。それはもう金儲けと聞いちゃ、咽喉《のど》から手が出そうでございます」  紳「よし、それじゃおれについてくるがいい」  ア「へえ」  紳「ついてこいと申すのだ」  ア「ついてまいるとどうなりますので」  紳「わからぬやつだな、貴様は。ついてまいれば金儲けをさせてやろうと申すのだ。どうだ、千ポンドだ、千ポンドの金が欲しくはないか」  千ポンドと申せば大金でございます。アーサーはしばらく考えておりましたが、  ア「まあ、よしましょう」  紳「よす? 貴様千ポンドの金が欲しくないのか」  ア「それは欲しいのは山々でございますが、これでも命は惜しゅうございます」  紳「これこれ、なにも貴様の命までくれとは申しておらぬぞ」  ア「いえ、よくわかっております。欲に目がくらんでついてまいりますと、新刀の試《ため》し斬《ぎ》り、それへ直って観念いたせなんてのはありがたくございません」  西洋のお話ですからそんなことは申しますまいが、しばらく押し問答を重ねておりましたアーサー、やっと納得《なつとく》がいったものか、連れられてきたのがウエスト・サイドの立派なお邸《やしき》でございます。  紳「なんにしてもその服装じゃいかんな。幸い風呂《ふろ》が沸《わ》いているから垢《あか》を落として、着物もここにあるから夜会服を着なさい」  と言われてアーサー、一風呂浴びて久しぶりに鬚《ひげ》を剃《そ》り、髪を梳《くしけず》り、夜会服を着てみると、元来が賤《いや》しい育ちではありませんから、意気で高等で我ながら惚《ほ》れ惚《ぼ》れするくらいの男振り。件《くだん》の老紳士も、ことごとく御満足の御様子で。  紳「フーム、これはみごとだ。思ったより掘り出し物だ。どうだ、貴様一杯飲まぬか」  ア「は、ちょうだいいたします」  と早や、言葉から改まるから不思議だ。やがていままで味わったこともないようなけっこうなお酒に、前後も忘れて陶然と酔いが回ったアーサー、贅沢《ぜいたく》な安楽|椅子《いす》にふんぞり返ってみると、まるで夢のような心持ち。  紳「どうだね、この気分は」  ア「は、悪くはございませんな」  紳「気に入って幸せだ。どうだ貴様、いつまでもこういう生活をつづけたいと思わぬか」  ア「それはもちろん、できればこんなけっこうなことはございません」  紳「ところがそれができるのだ。できるようにおれがお膳立《ぜんだ》てをしてやる。ただそれには覚悟が要る」  ア「覚悟とは」  紳「読んで字のごとし」  なあんて、荒尾譲介《あらおじようすけ》の台詞《せりふ》みたいでございます。  紳「まず第一に貴様は、いままでの身分をソックリ忘れて、今日からロナルド・ヒュームという大尉にならねばならぬ。どうだ、できるか」  ア「それじゃあっしがヒューム大尉の身替わりを勤めるので」  紳「さようじゃ」  ア「よしましょう」  紳「よす?」  ア「どうせ最初《はな》から正直《まとも》な仕事じゃあるまいと思っていましたが、かたりとは悪すぎます。第一私の性《しよう》に合いません。それにいつ本物が現われて、御用とこないものでもない。まあそういう危ない橋を渡るくらいなら、河岸通りで寒さに震えているほうがましでございますからね」  紳「貴様は見かけによらぬ臆病者《おくびようもの》だな」  ア「生まれつきでしてね」  紳「フーム」  としばらくアーサーの顔をながめていた件《くだん》の老紳士、つと立ち上がると暖房棚《マントル・ピース》の上に飾ってあった女の写真を取り上げると、  紳「貴様、この女をどう思う」  と言われてアーサーどきりとした。さっきこの部屋へ入った時から気がついているのだが、高貴の姫君と見えるすばらしい美人だ。男と生まれたからにはこんな美人と片時《かたとき》でも、差し向かいになって見たいと思うのが人情です。  紳「どうだ、実に美人じゃないか。ヒューム大尉は果報者だな。このような美人を許婚者《いいなずけ》に持っているのだ。しかも美人はまだ一度もヒューム大尉に会ったことがないのだから、絶対に露見する心配はないのだが、惜しいものだ、貴様にその気がないのならやむを得ん、また、ほかから適当なやつを探してこよう」  ア「それじゃあなたの言葉に従えばこの美人に会えるので」  紳「会えるどころじゃない。腕次第ではこの美人を自分の妻と呼ぶこともできる。どうだ、貴様、こういう美人の腕に抱かれて、愛する人よ、いとしい人よと言われたくないか」  と言われてアーサーは心の騒ぐ風情《ふぜい》で、生唾《なまつば》をのみこみ、のみこみ考えておりましたが、世の中には金で動かぬ人間でも恋には心乱れるならい、突如老紳士の足元にひざまずくと、  ア「やります。なんでもやります。人を殺せといえば殺しもします。その代わり、どうかひとめこの美人と会わせてください」    アーサー薔薇《ばら》の詩をよむこと  話変わってそのころロンドンの社交界にて、女王のごとくもてはやされておりましたのは、バーソロミウ・リプトン卿《きよう》の姫君にて、ハアミオンと称《よ》ばれたもう絶世の佳人、昨年父君リプトン卿を喪《うしな》ってより、一年の喪に服しておりましたが、ようやくその年忌も明け、近く社交界に再びその艶麗《えんれい》な姿を現わすというので、いやもうたいへんな騒ぎ。  我と思わん貴公子連中、我こそはかの麗しの花を手折《たお》らめや、わが宿の妻と定めんと、手具脛《てぐすね》引いて待っておりますが、かの寄るべなき身のアーサーが、その面影をひと眼見てしより長い浮き世に短い命とばかり、いかけ松もどきに宗旨を入れかえ、肝《きも》太くもロナルド・ヒューム大尉の替え玉となる決心をいたしましたのも、実にこの姫君のためでございます。  いったいこのヒューム大尉とハアミオン姫との間はどうなっているかと申しますと、姫の父リプトン卿はかつてインド駐在中ヒューム大尉の父なる人に危うい一命を救われたことがある。  その恩に報いるためでありましょう、大尉を姫の夫と定め、もし姫にしてこの遺言に従わず、他の男と結婚するような場合には、遺産は全部姫の叔父《おじ》なるジェラルド・リプトン大佐のもとに行くことになっている。姫にとってはまことに迷惑な話で、いままで一度も会った事もない人を、夫としなければならぬというのだから実に心もとない次第です。インド生まれのインド育ち、さぞやむくつけき東夷《あずまえびす》であろうと思えば、早や胸がふさがる思いでございますが、そこはそれ、社交界で鍛えあげた腕前、なんとかうまくあしらってやろうと、手具脛《てぐすね》引いて待っているところへ、叔父なるリプトン大佐に伴われて現われたのがヒューム大尉ならぬ贋物《にせもの》のアーサー・ルラン。姫はむろんそんなこととは知らない。  ひと眼見るよりポッと顔に紅葉《もみじ》を散らしたのは、ハテ怪《け》しからぬ雲行きとなったもんです。  大「姫や、そなたの許婚者のヒューム大尉をお連れしたよ。大尉はインドから帰って来たばかりだから何もわからぬ。そなたよろしく引き回してあげておくれ。これ、姫や、どうしたものだ。何をそのようにぼんやりしている」  と言われて我にかえったハアミオン姫。  姫「おや、まあ、わたしとしたことが。……ほほほほほ、いらっしゃいまし」  と白魚のような手を差し出されたアーサー、ブルブルと身震いをした拍子に、ロンドンじゅうが震えたと申しますが、これはあまり当てになりません。  ア「はじめてお眼にかかります。私がロナルド・ヒューム大尉でございます」  姫「まあ、大尉さまとしたことがそのように堅苦しいことをおっしゃって。……まんざら赤の他人でもありますまいに」  と怨《えん》じるように申しますのは、許婚者の仲であることをハッキリ相手に思い出させようとの意味か、いや味《あじ》なことになったもんですが、リプトン大佐はうまくいったと内心|北叟笑《ほくそえ》んでいる。  かくして大佐の計画はまんまと成功して、贋《にせ》大尉のアーサーとハアミオン姫は日増しに親密になるばかり、姫はせっかくの社交シーズンをどこへも顔を出さず、ただもう大尉とうれしく楽しく戯れてしまいには体にきのこが生えたというんだから、社交界の貴公子連中ことごとく目算はずれというわけです。  ○「どうだ貴公、近ごろのハアミオン姫の噂《うわさ》を聞いておるか」  △「いや、いっこう聞かんが、姫がどうかいたしたかな。盲腸炎でも起こしたかな。それとも虫歯が痛むのかな。虫歯なら拙者が接吻《せつぷん》してやるとケロリと治るて。どうだ貴公ひとつ試してやろうか」  ○「ウプ。冗談じゃない。そんな暢気《のんき》な沙汰《さた》じゃござらぬ。姫に虫がつき申した」  △「なに、虫がついた? それでは早速ナフタリンでも」  ○「これこれそんな虫ではござらぬわ。姫に恋人ができたと申しておるのだ」  △「ああ、そのことか、それなら別に耳新しいことではござらぬ。拙者とくより承知いたしておる」  ○「なに、貴公御存じとな。それでは相手の名も御存じであろうな」  △「モチ」  ○「モチ? いや気味の悪い声だな。して相手は何者でござる」  △「はばかりながらオホン、拙者でござる」  なんてたいへんな騒ぎ。こういう連中が集まりまして、インド帰りの大尉づれに姫を取られたとあってはわれわれロンドンっ児の恥だ。ひとつ大尉を辱《はずかし》めてやろうではござらぬか、さよう、さよう、それがよろしゅうござるというので、ある時ヒューム大尉のアーサーが公園を散歩しているところをつかまえて、  ○「貴公、この花を御存じか」  と差し出したのが薔薇《ばら》の花。アーサー内心馬鹿にしてると思ったが、そんな様子は気振《けぶ》りにも見せません。萬年筆と紙を取り出してすらすらとしたためましたのが、    I think it's a rose-flower of England     But what would say Londoner about it?  という一|聯《れん》の詩でございます。これを翻訳いたしますと、 「イギリスの薔薇の花とは思えども、ロンドン人《びと》はなんというらん」  ということになるんだそうで、いやあっぱれなもんでゲス。おかげで貴公子連中すっかり器量をさげて引きさがりましたが、これを聞いてことごとく喜んだのはハアミオン姫、近ごろはロナルドさん、ロナルドさんローさんやとばかり、片時もそばを離れませんから、時分はよしと叔父のリプトン大佐。  大「どうだね。例のことはまだ進捗《しんちよく》しないかね」  ア「例のこととは?」  大「わかっておろう、結婚のことさ」  ア「結婚ですって。それでは大佐どの。このまま姫と結婚しろとおっしゃるんですか」  大「さようさ。姫のほうでもどうやらその気らしいからあんまり焦《じ》らせるのは罪というもの。いいかげんに納得させてやったがよいではないか」  ア「しかし大佐、それでは本物のヒューム大尉はどうなるのですか」  大「ははははは、貴様の心配しているのはそのことか。それなら心配は要らぬ。実は大尉も同意の上じゃ」  ア「え? 大尉も同意ですって」  大「さようさ。大尉は質朴《しつぼく》な軍人ゆえ、七面倒な社交界だの姫君なんてのが何よりの苦手だ。そうかといってロンドンへ帰った以上|挨拶《あいさつ》にまいらぬわけにゆかぬ。そこで困《こう》じ果てたあげく、思いついたのがこの身替わりの一件さ。その代わりがどのようなことをしようと文句は言わぬと一札とってある。だから貴様はいわば天下御免の天一坊。どうだ、それでもいやか」  ア「なるほど、して、大尉はいまどこにいるのですか」  大「名前を変えてパリにいるはず、おおかた、いまごろは姫よりもっと美しい花を手に入れてヤニさがっていることだろうよ」  と、こう聞いてみればなんとなく気も楽になるとみえて、それよりアーサーはますます腕に撚《よ》りをかけてモーションをかけましたから、姫のほうではたちまち陥落、ついに秘密に結婚式をあげると、ロンドンの片ほとりに、人眼につかぬ瀟洒《しようしや》たる家を一軒かまえ、ここを逢曳《あいびき》の場所と決めては人知れず楽しんでおります。いや高貴の姫君にあるまじき振る舞いといえば振る舞いです。    アーサー野菊の家に佳人を発見すること  かくして二人は人知れず、蜜のようなささやきを交わしておりましたが、天網恢々《てんもうかいかい》、疎《そ》にしてなんとやら、ある日この隠《かく》れ家《が》を襲いましたのは数名の警官、有無をも言わさず贋《にせ》大尉のアーサーを引き立てたから、ハアミオン姫の驚きはいかばかり。  鴛鴦《おしどり》の片羽《かたは》もがれた嘆きもかくやと、しばし悲嘆に暮れておりましたが、だんだんきいてみると叔父リプトン大佐の悪事の数々が露見するとともに、アーサーまで累《るい》を及ぼし、図らずも彼の仮面生活が暴露《ばくろ》したというわけで、いやもう、ハアミオン姫の驚きは察するに余りあります。  アーサーは由ないことに加担したばかりに、十八ヵ月という懲役を申し渡され、出獄した時には右を向いても左を向いても寄るべなき前科者の哀れな身の上、とぼとぼと歩いているうちにふと眼についたのは新聞売り子、何気なく新聞を一枚買って開いてみると、おりもおり、麗々しく載っておりますのは、ハアミオン姫とロナルド・ヒューム大尉の結婚の報道でございます。さては姫にはとうとう、ほんもののヒューム大尉と結婚したとみえる。ああ、口惜《くや》しい、だまされたと、アーサーは早や気も狂わんばかり、よしよし向こうがその気なら、こちらにもそれだけの覚悟がある。  これから早速乗り込んで、神の前に終世誓った言葉を思い出させてやろう、そうすれば姫は取りも直さず二重結婚の重罪に落ちるわけ。それぐらいのことをしてやらなければこの腹が癒《い》えぬ、と血相変えて行きかけましたが、すぐまた気を取り直し、いやいや、そんなことになれば姫はどのように悲しむだろう、おそらくおめおめと生きてはいまい。  たとえ、わずかの間でも、恋しい人よ、愛する妻とささやきあった仲の相手を、そのような不幸に陥れてよいだろうか。  いやいや、ここはいちばん男らしく思い切って、姫の幸福を祈ってやるのが自分のつとめだと、健気《けなげ》にも決心をしましたアーサーが、ふらふらとやってまいりましたのは、昔、姫と楽しい語らいを交わしたあの隠れ家でございます。  見れば庭に咲き乱れた野菊の色も昔に変わらぬ懐かしさ、ああ、いまはどのような人が住んでいることやらと、とつおいつ立ち去りかねておりましたが、たまりかねてフラフラと扉《ドア》を開いて中へ入れば、こはそもいかに夢ではないか、にこやかに微笑をたたえて迎えたのは、昔に変わらぬハアミオン姫。  ア「や、や、そなたは姫ではないか」  とアーサーが思わずびっくり仰天するのを、さもうれしげに寄り添った女。  女「お帰りあそばせ。今日のお帰りをまあどのようにお待ちしておりましたでしょう」  ア「姫、なんと言やる、それは真実の言葉かえ」  女「まあ、なんで嘘《うそ》など申し上げましょう」  ア「それじゃと言うてそなたは、ロナルド・ヒューム大尉と改めて結婚したはずではないか」  女「はい、たしかに結婚いたしました。そして、その恋しいヒューム大尉さまとは、あなたでございます」  ア「いやいや、わしはロナルド・ヒュームでもなければ大尉でもない。わしは腹黒いそなたの叔父に頼まれて、替え玉の役をつとめてそなたをだました悪人だ。そなたもそれをよく知っておいでではないか」  女「ハイ、よく存じております」  ア「知っていながら、そなたはやはり私を愛してくれるというのかえ」  女「愛せずにどういたしましょう。神の前に誓った言葉になんで嘘がございましょう」  ア「それでは私が贋者でも」  女「アーサーさま、贋者はあなたばかりではございませぬ。かく言うわたしも……」  ア「ゲ、ゲ、なんと言やる」  女「ハイ、贋者でございます」  というなり、アーサーの胸にすがりついて泣き伏したから、これにはアーサーもびっくりした。  ア「これはいったいどうしたことだ。もっと詳しく話してくれねば、私にはとんとわけがわからぬ。姫そなたが贋者と言やるのは」  女「ハイ、わたしはハアミオン姫ではございません。姫と瓜《うり》二つであるところより、頼まれて身替わりの役をつとめておりましたメリーと申す賤《しず》の女《め》でございます」  ア「してまた、そのメリーがなんのために姫の身替わりを……」  女「ハイ、それはこういうわけでございます」  メリーが改めて語ったところによるとかような次第で。ハアミオン姫がロナルド・ヒューム大尉を袖《そで》にして他の者と結婚した場合には、遺産全部が叔父リプトン大佐の所有になることは前にも申し上げましたが、ただしそれには例外がある。もしヒューム大尉のほうで勝手にほかの女と結婚した場合には、姫はその義務から取り除かれる。つまり大尉と結婚しなくても済むというわけでございます。  メ「それでお姫さまは私を身替わりに立て、なんでもかんでも、私と大尉を結婚させてしまったその後で、大尉はほかの女と結婚したから自分には遺言状を履行する義務はないと、主張をされようという御魂胆」  ア「ハテナ」  メ「だますだますと思っていたのが、互いにだまされていたそのおかしさ」  ア「ハテ面妖《めんよう》な」     chon!  両人「事じゃなあ」  というようなわけで。一方ハアミオン姫はどうなりましたかというに、メリーにいっさい任せておいて、自分は名前を変えてパリで好きほうだいなことをしているうちに、恋に陥ったが、同国人の青年士官、急にこの恋が進捗《しんちよく》いたしまして、いよいよ結婚という間際にお互いに本名を打ち明けてみると、これがほんとうのヒューム大尉だったというわけで、御両人、アリャリャというようなわけでございましたが、なんにしてもこんなめでたいことはございません。その後アーサーとメリーの二人は改めて姫から莫大《ばくだい》な資本を出してもらって、帽子屋を開店いたしましたという読み切りの一席でございます。 [#改ページ] [#見出し]  噴水のほとり     一  龍吉《りゆうきち》は妙な子供である。  暇さえあれば公園の中にある噴水のほとりへやってきて、いつもひとりぽっちで歌をうたったり、草笛を吹いたり、石蹴《いしけ》りをしたり、草を編んだり、そして疲れると、池のそばにある大きな記念碑の陰に腰をおろして、ぼんやりと膝《ひざ》小僧を抱きながら、噴水の音に耳をかたむけている。  噴水はいつも元気よく、さらさらと音を立てて空に舞いあがっていた。その先には、紅《べに》と黄のだんだらに染められたピンポン・ボールが、おもしろく、くるくる踊っていて、風と日光のぐあいでは、どうかすると、その辺一帯に植えこんである青々とした楓《かえで》若葉の上に、さっと美しく、虹《にじ》を織りだすことがあった。  龍吉はこの噴水のほとりが大好きだった。それはくるくると踊っているピンポン・ボールのおもしろさや、虹の美しさや、さては池の中を泳いでいる緋鯉真鯉《ひごいまごい》の可愛らしさや、そういうものが、淋《さび》しい彼を惹《ひ》きつけるからでもあったが、それよりも、もっと大きな理由としては、この噴水のそばにいると、いつも亡くなった母の声が聞こえるような気がするからである。  龍吉の母は数年前に、長い患《わずら》いのために亡くなった。亡くなる前の母は、龍吉を連れてこの噴水のほとりへ散歩にくるのが、一日じゅうでの最も楽しい日課であるらしかった。ここは公園の中でもいちばん静かだし、陽《ひ》が強すぎると、それを避けるのに格好の茂みもあるし、龍吉を遊ばせておくのに危険もないし、かたがた、このささやかな噴水のほとりは、病身な母と、幼い子供にとって、最もお気に入りの場所になっていた。  お天気さえよければいつでも二人は、白塗りのベンチの上に仲よく並んで、母子《おやこ》というよりは、まるで友達のような調子で話しあいながら、くるくるとおもしろいように踊っている、ピンポン・ボールを飽きもせずにながめていた。  どうかすると風の方向が急に変わって、二人ともびしょぬれになるようなことがあったが、それでも二人は手をたたいて興じあった。 「ねえ、お母さま」  あるとき、ベンチの上から両脚をブラブラさせながら、鹿爪《しかつめ》らしい顔をして、噴水をながめていた龍吉が、ふと大きな眼をくるくるさせると、 「あの噴水、なんて言ってるか知ってる?」  といい出した。 「さあ、なんて言ってるんでしょうね」  長い病気のためにやつれてはいるが、どっか美しさの残っている若い母は、静かな微笑をたたえながら首をかしげた。 「わからない? お母さま」 「ええ、わからないわ。なんて言ってるの?」 「わからなきゃ、教えたげましょうか」 「ええ、教えてちょうだい」 「あれはね、母ちゃん、母ちゃん、母ちゃんと言ってるのよ。ほら、じっとして聴いててごらんなさい」  龍吉にそういわれて、じっと首をかしげていた母は、にっと笑いながら、 「まあ、ほんとね、ほほほほほ」  と、うれしそうに笑ったが、しばらくして少し風が出てくると、 「おや、龍ちゃん、噴水の音がさっきと変わってきたわよ。こんどはなんて言ってるんでしょうね」 「そうね」  もったいらしく耳をかたむけていた龍吉は、 「ああ、わかった。こんどはお母さまがぼくを呼んでるんだよ。ほら、龍ちゃん、龍ちゃん、龍ちゃん……て言ってる」  と、いって母を笑わせた。  それからというもの、若い、病身な母とその子供は、前よりもいっそう、この噴水のほとりが好きになった。噴水の言葉はいつも同じではない。日によって、時間によって、種々さまざまに変化するのである。  あるときは、龍吉さんのお利口さん、龍吉さんのお利口さんと、ゆるやかに、節をつけて舞いあがっているかと思うと、また別のときには、龍ちゃんの馬鹿、龍ちゃんの馬鹿と、鋭く、小刻みに噴きだしていることもある。そんなときには、水の色からして、黝《くろず》んで、不機嫌《ふきげん》に見えるのである。  若い母は、そういう噴水の言葉を、幼い子供の翻訳によって聞かされるたびに、うれしそうに微笑《ほほえ》んだり、時によっては、声を立てて笑ったりした。  龍吉は不思議な児《こ》で、生まれつき聴覚が異常に発達しているのだった。  龍吉の家は、その公園を出て、すぐそこの横町を曲がった露路の突き当たりにあったが、その露路を出たところの表通りを電車が走っていて、しかも、その電車線路は、ちょうど路地の入り口のあたりで、かなり急なカーブをえがいていた。だから、その路地の奥にある龍吉の家では、一日じゅう、カーブを曲がるときに軋《きし》る、一種特別な電車の音に、悩まされなければならなかった。  龍吉は生まれた日よりその年になるまで、一日としてこの電車の軋音《きしり》を耳にしない日はなかったが、そうしているうちに、いつの間にやら彼は、その音を聞いただけで、いまの電車は何千何百何号の、どこ行きであるかということを、まるで 掌《たなごころ》 でも指すように、間違いなく当てるようになった。  母はいま、ふとその時分のことを思い出した。天才少年というような標題《みだし》のもとに、大きく新聞に掲げられたり、いろんな偉い学者たちの立ち会いのもとに、むずかしい実験をされたり、まだ七つにも足らぬ子供を中心に、大騒ぎを演じたその当時のことを思い出すにつけても、このような異常な才能をもった少年の将来に対して、楽しい希望とともに、母親らしい危惧《きぐ》の念をも禁ずることができない。しかし、ああ、それがなんであろう。どっちみち、あまり長く長く生きていることのできない自分は、よかれ、あしかれ、この子供の将来を見ることはできないであろう。——  若い母はそこで、かすかな溜息《ためいき》をつくと、子供の不憫《ふびん》さにいつか眼の中が熱くなって、そして噴水の水煙《みずけむり》さえ、ぽっと滲《にじ》んだように見えてくるのであった。  母の嘆きは間違いではなかった。それから間もなくの、ある秋の終わりごろ、彼女はおびただしい血を吐いて死んだ。  そして、龍吉の家には新しい母が来た。  新しい母は、前の母に比べるとはるかに若くて、まるで女学生のように朗らかで、健康で、そして龍吉にも優しかった。しかし、前の母のように、無言のまま向きあっていても、心と心とが通うようなわけにはいかなかったのは是非もない。それに彼女には、すぐ後から後からと子供ができたので、そういつまでも、龍吉ばかりをかまっているわけにもいかなかったのである。  そこで、龍吉がひとり悄然《しようぜん》として、噴水のささやきに耳をかたむけているというような日が、だんだんと多くなってきた。  龍吉はいつの間にやら十六になっていた。     二  今夜も龍吉《りゆうきち》は、池のほとりの大きな記念碑の裏側で、膝《ひざ》小僧を抱いたまま、ぼんやりと噴水のささやきに耳をかたむけている。  夏の近い、ある美しく晴れた夜のことで、香《か》ぐわしい空気は、しっとりと潤《うるお》いを帯びていて、少しも寒くはなかった。それに、この辺は珍しく蚊のいない場所だったし、灯《あかり》といっては、池の向こう側に、ほの白い街燈がたった一つ立っているきりで、その光とてもこの辺までとどきそうもなかったから、あたりはまっくらというほどではないにしても、とまれ、ひとり物思いにふけっているには格好の場所だった。  芝生《しばふ》の上に仰向けに寝ころぶと、頭のすぐ上には、透けて見えるほど真《ま》っ青《さお》な楓《かえで》の若葉が重なりあって、その隙間《すきま》から漏れる星の光は、驚くほど、くっきりと鮮やかであった。ときどき、さっと吹いてくる風が、ザワザワと梢《こずえ》をゆすぶって、どうかすると、冷たい夜露を落とすことがある。  ——その時、龍吉はふと、池の向こうからさくさくと砂利を踏んで、こちらへ近づいてくる足音を聞いた。靴《くつ》の音らしいのである。はてな、龍吉は相変わらず寝そべったまま小首をかたむける。  男かしら、妙だな、男のようでもあるが、やっぱり女らしい。……  龍吉はたいてい、その足音を聞いただけで、相手の性別はもちろんのこと、年齢までおよそ判断できるのであるが、この足音は妙である。女のようであるが、それでいてまた、男のようにさくさくと、歯切れのいいところもある。  しかし、龍吉は特別その足音に深い注意をはらっていたわけではなかった。  近道をするために、公園を斜めに突っ切ろうとする人々の一人であろう。どうせ間もなく行きすぎてしまうのだ。この記念碑のうしろにいるものだもの、見とがめられる心配なんてありゃしない。……  しかし、龍吉の考えは間違っていた。足音の主は、池の向こう側にある街燈のあたりで立ち止まったらしかった。そこで、しばらく足音がとだえたのは、きっとその光の下で腕時計でも見ていたのであろう。しばらくすると、以前とは変わった、ゆっくりした足どりで、池を回ってこちらへやってきた。  むろん、そんなところに龍吉がいようなどとは、夢にも気がつかないのであろう。噴水の周囲を、いくらかいらいらとした調子で歩き回っている。時々、記念碑のすぐ向こう側で立ち止まって、軽く口笛を吹いたりした。  相手との距離が、それほど近くなったにもかかわらず、龍吉はまだ、その性別をハッキリと判断しかねていた。女にちがいないと思うけれど、それにしては、ひどく物にこだわらぬ性質らしく、さくさくと砂利を噬《か》む靴音には、青年のような爽《さわ》やかな小気味よさがあった。  妙だな、やはり男かしら。青年としては、どっかタッチに柔らかなところがある。  むろん、のぞいてみれば造作《ぞうさ》なくわかることである。しかし、そうするにはどうしても、芝生の上に起き直らねばならない。音を立てて相手を驚かしては——、とそういう懸念《けねん》が龍吉の行動を妨げる。それに彼は、聴覚だけで、判断してみたいという、妙な欲望を持ってもいた。  不思議な人物は、しばらく口笛を吹いたり、低声で鼻唄《はなうた》をうたったりしながら、その辺を歩き回っていたが、すると間もなく、第二の足音が、またはるか池の向こうからこちらへ近づいてきた。  こんどは明らかに女である。それもまだ若い、おそらく二十前後の女であるらしい。さくさく、さくさくと小刻みに砂利を噬《か》む靴音は、歩くというよりは飛ぶような調子だ。さきほどから、池のほとりで、待っていた人物が、その時、突然、 「貝子《かいこ》!」  と、低い声で呼んだ。ひどく幅の広い、低い、しゃがれた声で、しかも、非常に歯切れのいい、爽快《そうかい》な調子だったが、間違いなく、それは女の声であった。  妙だな、男のような女だな。  芝生の上で龍吉がそんなことを考えている時、若い女の足音が急に近くなってきた。足音ばかりではない。はアはアという激しい息遣いまで、明瞭《めいりよう》に聞き取れるのである。 「貝子!」 「ミミ?」  若い女の、美しいアルトの声が、闇《やみ》の中を透かすようにひびいてきた。 「うん、ぼく」  次ぎの瞬間、貝子の体とミミの体が一つになったらしい。短い沈黙があったのちに、早口で、貝子が何やらくどくど言い出した。非常に早口で、それに時々、噴水の水の音でかき消されるので、全部の意味を聴き取ることは困難であったが、どうやら相手の心変わりを恨んでいるらしいのである。 「困るなあ、そう邪推ばかりしちゃ。そんなわけじゃないって、さっきからあんなに口を酸《す》っぱくして言ってるのに、貝子にはわからないのかなあ」 「だって、だって……」  貝子が泣き声を振りしぼって、何か言いかけたが、その声は、足音とともに、次第に池の向こうのほうへ遠ざかっていった。  龍吉はなんとなく、はっとした。貝子という女の言葉の調子や、足音や、身動きの中に、何やら激烈な感情の切迫を感じて、いまにもとんでもないことが起こりそうな気がしていたからである。早くどっかへ行ってくれればいい。彼らの間にどのようなことが起ころうとも、自分のいない所でならちょっともかまやしない。——  しかし、二人は立ち去ったのではなかった。ますます激しく言いつのりながら、池を一巡《ひとめぐ》りして、次第にまたこちらへ近づいてくるらしいのである。その様子から判断すると、二人とも少しでも冷静になるどころか、いよいよ猛《たけ》りたっているらしいのだ。  二人は記念碑のすぐ前まで来た。  そこでまた、貝子がキイキイ声をふりあげて、ひとしきりミミを口説いていた。それに対して、むっつり黙りこんでいたミミが、ふいにキッパリとした声でいいきった。 「貝子、そんなに面倒くさいのなら、ぼく、もうまっぴらだよ」 「まっぴらって?」  貝子のうめくような声が聞こえる。 「今夜きりということさ。ぼくのことはさっぱりと忘れてくれたまえ」 「えっ、忘れろですって?」 「そうだ。きみはきみ、ぼくはぼくということにしようじゃないか」 「じゃ、今夜を最後の晩にしようというの、ミミ?」 「だって、仕方がないじゃないか。ぼくだってこんなこと言いたかないけれど、きみが信用してくれないのだから仕方がない」 「まあ、愛想づかしをおっしゃるのね。そしてわたしと別れて、あのかたのところへいらっしゃろうというのでしょう?」 「あのかたって、黄枝《きえ》のこと? ほんとう言うと、ぼくいままであの女《ひと》はそんなに好きじゃなかったのです。しかし、そんなふうにしつこく邪推されると、ぼく、意地でもあの女《ひと》のものになりたくなるよ」 「ミミ!」  突然、貝子が絶叫した。 「それがあなたの本心なのね」  ざざざざざ! と砂利を蹴立《けた》てる音がして、龍吉は思わずハッと首をすくめた。そのとたん、闇《やみ》にひらめく白刃《はくじん》を、ハッキリと見たような気がしたからである。 「貝子、何をする!」 「堪忍《かんにん》して、ミミ!」  悲劇は瞬間にして終わった。  記念碑のすぐ向こう側で、低いうめき声がしたかと思うと、つづいて、ドサリと重い物が倒れるような地響きがした。  それから、あとはもとの静寂《しずけさ》。  龍吉は記念碑のこちら側で、きっと歯をくいしばりながら、楓《かえで》の若葉のようにちりちりと震えていた。いつの間にやら両手をしっかと草の根につっ込んで、爪の間には土がいっぱい詰まっている。  泣きだしたいのだ。  絶叫したいのだ。しかし、その結果を考えると、恐ろしさにぞっとする。自分がここにいることを相手に覚られてはならぬ。もし、覚られたら、自暴自棄《やけくそ》になっている貝子のことだ。どんなに恐ろしいことになるか知れたものじゃない——  突然、碑の向こう側で、激しい歔欷《すすりなき》の声が聞こえた。つづいて、屍骸《しがい》をかき抱いて、くどくどとささやいている声が聞こえる。 「堪忍して、ミミ、堪忍して。あたしは誰にもあなたを渡したくなかったの。あなたをいつまでもいつまでも、あたし一人のものにしておきたかったの、あなたは御存じじゃなかったのだわ。どんなにあたしがあなたを愛していたか。……どんなに狂おしい愛情を、あなたに対して注ぎかけていたか。……許してね、あたしを可哀そうだと思って、昔どおりに愛してちょうだいね」  貝子はそこで言葉を切ると、なおしばらくの間、激しく歔欷《すすりな》いていた。泣いて泣いて、涙が涸《か》れるほど泣きつくした。  そうすると、いくらか気が楽になったのであろう。涙をぬぐうと急に恐ろしくなったように戦慄《せんりつ》しながら、 「さようなら、ミミ。あなたはもう永久にあたしのものよ」  それから、さくさくと戦《おのの》くような靴音が、砂利を噬《か》んで、次第に遠のいてゆく。ときどき、逡巡《しゆんじゆん》したり、かと思うと、急に駆けだしたり、その足音からして、いかに彼女が激しい混乱に陥っているかわかるのである。  龍吉は一枚ずつ、心の重石《おもし》をとり除かれてゆくような気持ちで、じっと、その足音に耳をすましていたが、ふいに、おやという風に小首をかしげた。その靴音の中に、何やらとがった、キイキイとかすれるような雑音が混じっていて、それが、鋭い龍吉の聴覚をとらえたのであろう。 「なんだろう、あれは。——」  龍吉は、不安そうにつぶやきながら、ごそりと草の上に起きあがった。それから、こわごわ、四つん這《ば》いになったまま、記念碑の向こうをのぞいてみた。  そこには、タキシードを着た若い少女が、仰向けになったまま倒れている。ボーイシュ・カットの髪の毛が、広い額《ひたい》の上にばらりと乱れて、薄化粧をした顔が、夕顔のようにほんのり白いのである。  龍吉もその少女を知っていた。  それはいま、某レビュー劇団で、すばらしい人気を博している、いわゆる男装の麗人、百合園美々子《ゆりぞのみみこ》なのである。  龍吉はごそごそ這《は》うようにして、この可哀そうな少女の屍体《したい》に近づいていった。見ると、記念碑の表面から、砂利の上にかけて、べっとりと血の飛沫《しぶき》である。龍吉はそれを見ると、思わず戦慄《せんりつ》して面をそむけたが、その拍子にふと眼についたのは、ミミの屍体のすぐそばに落ちている、一|輪《りん》の薔薇《ばら》の花である。  おそらく、ミミがタキシードの襟《えり》にさしていたものであろう、短いピンが挿《さ》さっていて、そしてそのピンの先端が折れている。 「ああ、これだな」  龍吉はそれを拾おうとして身をかがめたとたん、ふとミミの顔に眼を落とすと、さらさらと、暗い噴水の影を受けたミミの唇《くちびる》は、いまにも何か言いそうであった。  龍吉は急に恐ろしくなって、薔薇の花を拾いあげると、いっさんに池を回って逃げだしたのである。     三  ミミ殺害事件の記事が、世間を騒がしている間じゅう、龍吉は決して、その噴水のほとりに近づこうとはしなかった。 「龍ちゃん、どうしたの。このごろはちっとも公園へ出かけないのね」  若い母がからかい顔に言ったときも、龍吉はただ、ううんと上眼《うわめ》づかいに、言葉少なく、首を振ってみせただけだった。 「やっぱり、あんな恐ろしいことがあったので、怖くて近寄れないのでしょうね」 「なにしろ、たいへんな騒ぎだね。女学生たちの悲嘆の程はすばらしいというぜ」  まったく龍吉の父の言葉どおり、ミミの死ほど近ごろ世間を騒がした事件はないのである。さまざまなデマやゴシップが入り乱れてとび、彼女と交渉のあった少女たちが、次から次へと新聞の上で問題にされた。しかも、それらの多くが、良家の子女であったところから、そのたびに騒ぎは大きくなるのだったが、不思議なことには、貝子という名前だけは、いつまでたっても、事件の表面に現われて来ず、したがって犯人も捕まらなかった。  こうして事件の日から早くも二月《ふたつき》とたち、三月《みつき》と過ぎて、そしてようやく人々の脳裡《のうり》からさすが人気のあったミミの記憶も、いつしか薄れていこうとする初秋ごろの、よく晴れた朝のことだった。  龍吉は久しぶりで早朝の公園へ入っていった。恐ろしい惨劇のあったあたりは、ひとしお砂利も清められ、記念碑の面もきれいにぬぐわれて、むろん血の跡など、どこにも残っていなかった。噴水はあの晩と同じように、さらさらと音を立てて舞いあがっている。  龍吉はその記念碑の前まで来たとき、ふと足を止めて地面を見た。白いマーガレットの花束がそこに落ちていたからである。龍吉は何気なくその花束を拾いあげたが、すぐ、それが偶然そこに落ちていたものではなくて、故意にそこに置かれていたものであることに気がついた。というのは、その花束は黒いリボンで結ばれていて、しかもそこはちょうど、ミミの血によって染められた、あの砂利の上だったからである。龍吉はそれに気がつくと、思わず花束を投げだして、いっさんに公園を抜けだした。  その翌日も龍吉は、そこに同じような花束を見た。それは決して昨日の花束ではなかった。白いマーガレットの花の中に山百合《やまゆり》が一本混じっていた。  その翌朝も同じだった。  龍吉は三度目の花束を見たとき、何か決心するところがあるように、久しぶりに日が暮れてから、噴水のほとりへ出向いていって、記念碑のうしろへ潜りこんだ。  龍吉はそこで、どのくらい待ったであろうか。秋に向かうころの夜の空気はかなり冷たくて、もし、あまり長く待たなければならぬようなら、彼はあきらめて引き揚げるつもりだった。  しかし、実際はそれほど待つ必要はなかったのである。  龍吉が潜りこんでから、半時間ほどしたとき、しとやかな靴《くつ》の音が池の向こうから聞こえてきた。その靴音はいくらかためらいがちに、しかし、間違いなくこの記念碑を目指してやってくるのである。龍吉はその靴音に、じっと耳をすましているうちに、にっこりうれしそうな微笑を漏らした。それがあの夜の少女であることを知ったからである。しかも彼女は、あの晩と同じ靴をはいている。  貝子はとうとう記念碑の前までやってきた。そして持ってきた花束を地上に捧《ささ》げると、長い長い黙祷《もくとう》をつづけていた。黙祷の合間には時々悲しげな歔欷《すすりな》きの声も混じった。  龍吉はその間、じっと辛抱して待っていたが、ようやく祈祷《きとう》が終わって、立ち上がろうとするとき、できるだけ静かな声で、 「貝子さん」  と、呼びかけると、すばやく相手の面前へ現われた。ああ、その時の貝子の驚き! もし、彼女の脚が、恐怖のためにすくんでいるのでなかったら、きっと、龍吉の止めるひまもなく駆け出していたであろう。まだ十八か十九くらいの少女で、あさみどりのワンピースと、桃色のハーフコートの下で、彼女の筋肉は蝋《ろう》のように固く凝固していた。 「どういうふうに話したらいいか、実はぼく、あの晩、ほらミミの殺された晩、この石の向こうにいたんです」  貝子はそれを聞くと、あっと叫んでとびかかりそうになったが、その顔からは血がことごとく引いて、唇《くちびる》まで真っ白になった。 「何も心配することはないのです。ぼくはだれにも話しはしないのですから。あなたがミミを殺したというようなことは。……」 「なんですって? あたしがミミを殺したのですって」貝子は必死となって、「何を証拠にあなたはそんなことをおっしゃるのです」 「証拠って、ぼくはたしかに聞いたのです。貝子という人がミミを殺すところを。……」 「そして、あなたはその女《ひと》の姿を見たの。あんな暗い晩に。——」 「いいや、見なかった。見なかったけれど……」 「見なかった? それじゃどうしてあたしがその貝子だとわかって? あたしは貝子じゃありませんわ」 「そうですか」龍吉は悲しげに首を振りながら「あなたはもっと上手に嘘《うそ》をつくためには、靴をはきかえてきたほうがよかったのです」 「靴が——靴がどうしたんですって?」 「あなたの靴の底にはピンの先端が折れて、突きささっているのです。ぼくの耳にはそれがよくわかるのです。そのピンというのは、ミミが胸に薔薇《ばら》の花を挿《さ》していたそのピンなのです。ほら、薔薇の花とピンとを、ぼくはいまでもここに持っているのです」  貝子はそれを聞くと、恐怖のために真っ青になった。彼女はまだ、龍吉の言葉をすっかり理解することはできなかったが、しかしそこに、容易ならぬ罠《わな》のあることに気がついたのである。 「あのとき、ミミの胸からこのピンの落ちたのを、あなたは——いや、貝子は知らずに踏んだ、そしてピンは折れて靴の底に突きささったのです。ぼくはあの晩、貝子の靴音に、とがった、キイキイというような雑音の混じっているのを聞きわけることができました。そして今夜もそれと同じ音を、あなたの靴音の中に聞いたのです。それでもあなたは、貝子でないと言いはりますか」  貝子は黙っていた。彼女の眼は恐怖のためにうつろになり、唇はかさかさに乾いて震えていた。おそらく彼女は、あの夜以来、長い病気で臥《ふ》せっていたのだろう。痛々しいほどやつれた眼のふちは、悲しみと恐怖のために、深い隈《くま》をえがいているのである。 「なにも心配することはないのです。ぼくだれにもしゃべりゃしなかった。ぼくはただ、ミミとの約束を果たしたいだけなのです」 「ミミとの約束ですって?」 「そうです。ミミはあのときまだかすかに呼吸《いき》をしていた。そしてぼくに、ことづてをしたのです、貝子という人に言ってくれって。……」 「あたしにことづてですって?」 「ああ、やっぱりあなたが貝子さんでしたね。そうです。あなたにことづてです」 「いったい、なんと言ったのです。ええ? ミミはあたしのことなんと言ったのですか」  龍吉は憐《あわ》れむように少女の眼を見た。それから、静かに、さとすようにいった。 「ミミはこう言ったのです。ぼくが——つまりミミのことです——ぼくが愛するのは貝子一人だ。ぼくは貝子に殺されたけれど、ちっとも恨みに思わない。いや、かえってうれしいくらいだ。どうかこの薔薇《ばら》を愛の印として、このことづてとともに貝子に贈ってくれ——と、そう言って、ミミはこの薔薇をぼくに渡したのです」  龍吉はしなびて色|褪《あ》せた薔薇の一輪を、そっと貝子の手に握らせてやると、この巧妙な嘘《うそ》がどのような反応をひき起こすかというふうに、じっと貝子の様子を見守っていた。そして突然、気違いのように地上に身を投げだして、咽《むせ》び泣く貝子を見ると、やっと満足したらしく、できるだけ静かにその場を立ち去ったのである。  その翌朝、人々は噴水のほとりに、自ら胸を貫いて死んでいる少女の屍体《したい》を発見した。  少女は襟に一輪の薔薇の花をつけ、あたりに白いマーガレットの花をいっぱい敷きつめて、その上で死んでいた。その顔は神々《こうごう》しいほど安らかであったということである。  噴水はいまでもさらさらと音を立てて流れている。しかし、その言葉を理解することのできるのは龍吉だけなのだ。  龍吉の性情は、この事件を転機として、急に大人のようになり、まもなく彼の鼻の下には、柔らかい青草のような髭《ひげ》がふさふさと生えはじめた。 [#改ページ] [#見出し]  舌  人通りも少ない薄暗い横町だった。  どうしてわたしはそんなところを通りかかったものか、また、それがどこであったのか、どうも記憶がぼやけていて、ハッキリと思い出すことができないのである。  梅雨《つゆ》あけの、暗い空気のムッとするような、そういう蒸し暑い陰気な夜のことで、それは浅草だとか千日前だとか、そういう毒々しいほどにぎやかな、盛り場のすぐ裏通りではなかったかと思う。  古風なジンタの音を、どこか間近に聞きながら、ふとその横町を通りかかったわたしはおやと思ってそこに足を止めたのである。この人通りの少ない薄暗い横町にアセチリンの炎もわびしく、不思議な店をひらいている露店をそこに認めたからである。  それは不思議にも恐ろしい品々を並べた珍しい露店だった。最初、わたしの眼をとらえたのは、店の正面に下がっていた、毒々しい色彩の絵だった。ほの白いアセチリンの炎の中で、それが真っ赤に浮きだしているのである。  何気なく、そばへ寄って見たわたしは、それが見るも恐ろしい、凄惨《せいさん》な人体解剖図であることに気がついた。 「旦那《だんな》、何か買ってくださいな。せいぜいお安くしておきますよ」  陰気な顔をした主人は、わたしの顔に好奇心の色を見ると薄暗いところからそういって勧めるのである。 「ふむ」  わたしはそう生《なま》返事をしながら、店の前にしゃがむと、そこに並べられた不思議な品々を一つ一つ、手に取ってみた。手ずれのした、グロテスクな格好の仏像がある。どうやらそれは歓喜天らしいのだ。非常に生々《なまなま》しい表情をした、十字架上のキリスト像がある。どうもそれは敬虔《けいけん》だとか、崇高だとかいう感じからは、はなはだ縁の遠い、一種の無残人形なのである。地獄変相図がある。八ヵ月ぐらいの胎児のアルコール漬《づ》けがある。奇怪な、オプシーンな浮世絵を描いた、青黒い鞣皮《なめしがわ》はどうやら、刺青《いれずみ》をされた人間の皮らしいのだ。淫《いや》らしい腫《は》れ物《もの》が花のように盛りあがった蝋《ろう》人形もある。  そのほか、ちょっと大きな声で言うをはばかるようなさまざまな、珍奇な器具が、いっぱいに並べてあるのだ。  わたしはそれらの一つ一つを手に取ってながめているうちに、ふと、小さな広口|壜《びん》を取りあげた。透明な液体をたたえたその中には、何やら、赤黒いような、肉の塊りがただ一つぶらぶらと浮かんでいるのだ。なんだろう、どうもわからない。いろいろと、ためつ、すがめつしてみたが、どうも判断がつきかねるのである。 「これはなんだね、妙なものだな」 「それですか」  無表情な顔をした露店の主人は、そっけない調子で、 「それは舌ですよ」 「舌——? なんの舌だね」 「人間の舌ですよ?」 「人間の舌だって?」  わたしは思わずもう一度、壜の中を透かしてみながら、 「死人の舌かい?」 「いいえ、生きてるやつを、そうして食い切ったのですね。もっとも、食い切られたやつは、すぐ死んじまいましたが……」  わたしは、思わずギクンと心臓が大きく躍るのを感じた。アルコール漬けになった赤黒い舌——ギザギザに食い切られた、生々《なまなま》しいその一端には、血がギラギラと漆《うるし》のように黒くこびりついているのである。わたしはそれを見ると、思わずゾーッとするような恐怖にうたれた。表情のない顔をした夜店の主人が鬼かなんどのように思われ、心臓が、針で刺されたような痛みを感じたのである。 「冗談だろう? 人間の舌だなんて」 「どうしてですか」 「だって、こんなもの売るのかい」 「売るのです。しかし、これは買主《かいて》が決まっているのですから、だれにでもお売りするというわけにはいきません」 「いったい、だれが、こんなものを買うのだね」 「見ててごらんなさい。いまに買主がやってきますから」  主人は浮かない顔をして、それきり口をつぐんでしまった。ジージーと、カーバイドの燃える音がして、雨気をふくんだ黒い風が、さっとほの白い炎をゆすぶる。 「あなたは新聞をお読みになりますか」  しばらくして、夜店の主人が沈んだ声でまたそういった。 「新聞?——うん、読んだり読まなかったり……」 「それじゃ、一週間ほど前に、Qホテルで、男が舌を噛みきられて死んでいたという事件を御記憶じゃありませんか」  わたしはドキッとした。そして思わず、この不思議な露店商人の顔を見直したのである。  Qホテルの、あの残虐きわまりなき事件——  それは近ごろでの、最も忌まわしい、気味の悪いできごとだったからである。わたしはこういう陰惨な物語を筆にすることをあまり好まないのであるが、一応お話ししておかなければ諸君にはなんのことかわからないだろう。  一週間ほど前のことである。  新宿にある、連れ込み専門という評判のあるQホテルへ宿泊した男女があった。男は五十くらいの重役タイプ、女はまだ二十そこそこの若い娘なのである、一見して連れ込みと知られるこの二人は十五号室へ一泊したが、その翌朝、男のほうだけが、べッドの中で冷たくなっているのが発見された。見ると口のまわりにべったりと赤黒い血がこびりついている。医者が駆けつけて、無理やりに口を開いてみると、男の舌がないのである。いや、途中から獣に食い切られたように千切《ちぎ》れ、そこにおびただしい血が、ブヨブヨとした塊りとなってたまっているのだった。  取り調べの結果、男はかなり有名な弁護士だということがわかった。そして犯人と目《もく》された女は、その弁護士の宅にかつて働いていた小間使いなのである。事実はこうなのだ、小間使いはその宅で働いているうちに主人なる弁護士の蹂躙《じゆうりん》するところとなったのである。これを感づいた弁護士夫人は、ダイヤの指輪を盗んだというかどで、その小間使いを告発した。可哀そうに、小間使いは取り返しのつかぬ体にされたあげく、無実の罪で六ヵ月の処刑を受けたのである。  Qホテルの事件は、この汚された小間使いの復讐《ふくしゆう》だったが、その手段のあまりの恐ろしさに、当時、大きなセンセーションを巻き起こしたものである。小間使いは間もなく弁護士邸の庭で縊死《いし》をとげているのが発見された。  この恐ろしい事件を、まざまざと思い出したところへ、ふとわたしの前へ立った女があった。 「あなたですね、わたしに手紙をくれたのは……あなたのところに夫の舌があるというのはほんとうですか」  わたしはその女の顔を見た。そしてわたしはその細面《ほそおもて》の、眼のつりあがった、ヒステリックな顔を、このあいだ、新聞で見たことを思い出したのである。  女は弁護士夫人だった。 「はい、ございます」  露店商人は無表情な顔をして、例のアルコール漬けの肉塊を手渡した。 「ありがとう……」女は静かにわたしのほうを振り返って「どう、これは——?」  と、そういって、ベロリと長い舌を出してみせたのである。そのとたん、どっと黒い風がアセチリンの炎をゆらめかして、あたりはひたひたと冷たい水のような狭霧《さぎり》の中に包まれた。 [#改ページ] [#見出し]  三十の顔を持った男    人間カメレオン  世の中に何が物すごいといって、新聞社の競争ほど激烈をきわめるものはないようである。わけても東都新聞と朝陽新報、——この帝都の二大新聞のあいだに繰り返されてきた虚々実々の攻防合戦ほど、われわれの眼をそばだたしめるものはなかった。  ちょっと一例を挙げてみても、東都新聞が南極探検飛行を計画すると、朝陽新報はただちに北極探検を応酬する。東都新聞がアマゾン遡江《そこう》とやると、朝陽新報では待ってましたとばかりにヒマラヤ登攀《とうはん》とくる。もっと滑稽《こつけい》なのは、朝陽新報である時土用の丑《うし》の日には牛肉を食うべしと宣伝しはじめると、東都新聞でもただちにそれに応酬して、寒《かん》の酉《とり》の日には鶏肉《かしわ》を食えとやらかすという寸法。  諸君がもしこの二大新聞社のどちらかに足を踏み入れたとしたまえ。そこに渦《うず》巻く轟々《ごうごう》たる輪転機のうなり、電話の怒号、嵐《あらし》のようなペンの呻吟《しんぎん》、憑《つ》かれたような記者諸君の急歩調の中から、澎湃《ほうはい》として湧《わ》き起こってくる社内の心臓の音を聞くことができるだろう。それはいつも次ぎのような金言をつぶやきながら、世にも忙しい鼓動をつづけているのだ。 「負けるな、負けるな、負けるな、負けるな。……」  と。  さて、私がこれから述べようとする「三十の顔を持った男」という、この不可思議な事件も、もとはといえば、そういう狂気じみた嵐の中から考案された、一つの催しものなのだ。  毎年夏になると新聞社は記事に困る。その余白を埋めるためと、一つには人気取りのために、どの新聞社でも奇抜な催しものを計画して、読者をあっといわそうと魂胆を砕くのだが、この一万円懸賞付きの「三十の顔を持った男」というのも、そういう夏場の催しものの一つで、これは東都新聞によって計画されたものである。  詳細をお話しするとこうである。  ここに鮫島勘太《さめじまかんた》という映画俳優がある。年齢は二十八、素顔はすこぶるつきの美男なんだそうだが、これが和製ロン・チャーニーという綽名《あだな》があったくらいで、実に扮装《ふんそう》の妙をきわめる。この男が変装すると、シャーロック・ホームズといえども看破することは困難であろうといわれたくらい、つまり人間カメレオンなのだ。  東都新聞社の幹部の頭脳にふと浮かんだ妙案というのは、この人間カメレオンを利用して、読者に一つの競技《スポーツ》を提供しようというのである。詳しく説明するとつまりこうなのだ。  八月一日より向こう三十日間、鮫島勘太は東都新聞社のおかかえとなって、東京旧市内の各地に出没する。むろん、素顔では現われない。毎日変わった扮装《ふんそう》のもとにできるだけ多く人の集まる場所へ出没するが、もしその扮装を見破って、無事に勘太を東都新聞まで連れてきたものがあったら、賞金として即座《そくざ》に一万円提供しようというのである。  むろん、これには新聞社側のフェヤー・プレーが要求される。そこでだいたい、次のような細目が発表された。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  一、鮫島勘太はこの競技中、絶対に旧市内より外に出でざること。  二、鮫島勘太は毎日必ず一定時間、群衆の中に現われ、しかも現われたという証拠を、写真でもって翌日の新聞に示すこと。  三、それらの写真で示された扮装が、鮫島勘太にちがいなかったことを、競技終了後、扮装場面を公開することによって一般に証明すること。  四、鮫島勘太はその正体を指摘された場合、絶対に否定、あるいは抵抗に類似する行為に出でざること。  五、もし最後まで発見者なき場合は、賞金一万円は防空基金として政府に寄付すること。 [#ここで字下げ終わり]  だいたい以上のとおりであった。  私はいま率直にいうが、近ごろ各新聞で行なわれた夏の催し物のうちで、これほど人気に投じたものはなかったのである。なにしろ欲と二人づれなのだ。その男を見つけさえすれば、一万円という金が労せずして転がり込んでくる。このセチ辛い世の中に、こんなうまい話はないではないか。  さればこそ、八月一日を期して競技の幕が切って落とされると、東京市中は沸き返るような人気だった。町の辻々《つじつじ》に貼《は》られた写真入りの宣伝ポスターの前には、いつも黒山のような人集《ひとだか》り、新聞は飛ぶように売れる。あちらでもこちらでも偽《プソイド》 勘太が捕らえられるという騒ぎ、いやもう血眼《ちまなこ》なのだ。あとでわかったことだが、この競技期間中に、東都新聞は実に十数万という発行部数を増加したそうである。  ついでにいっておくが、鮫島勘太はこの計画が発表される一ヵ月以前から、すでに姿をくらましていた。そしてその潜伏場所を知っているのは東都新聞社の三人の幹部だけ、その幹部というのは社長の河野《かわの》氏と編集長の栗原《くりはら》氏、それからもう一人はこの計画の立案者、東都新聞きっての腕利きといわれる少壮記者の結城皎平《ゆうきこうへい》、この三人だけなのであった。    歪《ゆが》んだ顔  激しい夕立のあった後、市中はにわかに涼しくなった。アスファルトは洗われたように水々しくぬれて、街の灯も涼を呼ぶように爽《さわ》やかにまたたいている。  日比谷の角にある東都新聞の電光ニュースは、今日も人間カメレオンが発見されなかった旨を報じて、人々の胸に新しい希望と興奮を呼び起こしている。  この東都新聞社の正門前に立てられた、大きな宣伝ポスターの前に立って、さっきからしきりに小首をかしげている男があった。日に焦げた赤ら顔、太い眉《まゆ》、胸が厚くて肩がもりもりと盛りあがっている。形の崩れた洋服、膝《ひざ》のとび出したパンツ、靴《くつ》は先端が丸くて底が平たい、ちょっと南洋通いの二等運転士といった格好なのだが、気になるのはその顔なのである。  激しい神経痛の発作でもこらえているように、顔じゅうの皺《しわ》という皺が全部左の頬《ほ》っぺたに集中していて、そのために顔全体が三角にゆがんでいる。それさえなければかなり男らしい顔貌《がんぼう》であろうと思われるのに。 「畜生!」  男は果たして苦しそうなうめき声をあげた。じっと歯を食いしばると、ゆがんだ顔がいよいよひん曲がって見えるのだ。  だが、それでもやっぱりその男は、ポスターの前から立ち去ろうとしない。去ろうとしないのみならず、さっきからしきりに不審そうな小首をかしげている。ところでこのポスターだが、いうまでもなくこれは、例の人間カメレオンの宣伝ポスターなのである。中央に大きく焼き付けてあるのは、鮫島勘太の素顔写真、その周囲には今日まで巧みに東京市民の眼を欺《あざむ》いてきた、彼の七つの扮装写真が貼りつけてある。今日は八月八日だから、この競技が最後までつづけられるとすれば、そこには彼の三十のちがった顔が貼りつけられることになるのである。  男はしばらくこのポスターとにらめっこをしていたが、やがてふふんと肩をそびやかすと、そばを離れてのろのろと歩き出した。それでもやっぱり気になることがあるとみえて、しきりに小首をかしげている。時々振り返って新聞社をながめる。立ち止まって電光ニュースを読んだりする。  やがて四つ角まで来ると、そこに立っている新聞売り子を見つけて、東都新聞を買った。そしてそいつをポケットにねじこむと、ぶらぶらと暗い横町へ入っていったが、この横町にある「はな屋」という大阪料理店の前まで来ると、にわかに空腹を思い出したように、つかつかと中へ入っていった。 「おいでやーす」  愛嬌《あいきよう》がいいので評判のお主婦《かみ》なのだ。 「ええお湿りだしたな。えろう急に涼しくなったやおまへんか。何にしまほ」  白い割烹《かつぽう》着を着たお主婦は、せわしそうに台の上を拭《ふ》きながら、ひん曲がった男の形相《ぎようそう》を、横眼でジロジロとながめている。時間すぎとみえて、ほかに客は一人もなかった。 「酒を頼みます」  男は案外優しい声でいった。それから二、三品の料理を付け加えると、お主婦のお世辞に耳もかさず、ポケットの中から今買ってきたばかりの新聞を取り出した。いうまでもなくこの男が探しているのは、例の「三十の顔を持った男」の記事なのである。  あった、あった。そこには、 「鮫島勘太東京駅へ現わる」  という標題のもとに、大きな写真が掲げてある。それはフランスへ招聘《しようへい》されていった映画女優、久米京子《くめきようこ》が東京駅を出発しようとする刹那《せつな》の、ホームの雑踏をスナップした写真なのだ。その群衆の中に白髪の老紳士がはっきり映っているが、その紳士の上に白い矢印がつけてあって、だいたい次ぎのような説明が付け加えてあった。  ——またもや諸君を出し抜いた鮫島勘太。昨夜彼は矢印のごとき老紳士に扮して東京駅へ現われ、かげながら久米京子嬢の前途を祝福したが、だれ一人それに気づいたものはなかったのである。このスナップに現われている人々は、今ごろさぞや地団駄《じだんだ》を踏んで口惜《くや》しがっていることだろう。さても神出鬼没の鮫島勘太よ、今日はいかなる扮装で、どの方面に現われるやら、諸君、眉毛《まゆげ》に唾《つば》して一日も早くこの人間カメレオンを逮捕してくれたまえ。一万円の懸賞金が、金庫の中で夜泣きをして困る。云々。——  お主婦の置いていった酒を、チビリチビリと舐《な》めながら、この記事を読んでしまった男の顔には、この時非常に妙な表情が浮かんでいた。ちょっと放心したような表情なのだ。例のゆがんだ顔のまま、じっと前の杯《さかずき》をにらんでいる。何かしら、古い記憶をたぐりだそうというふうに。  結城皎平——東都新聞の花形記者、あの人間カメレオンの立案者なのだ——その結城皎平が、いつものようにせかせかとした歩調で入ってきたのはちょうどこの時だったのである。 「お主婦、いつものやつをこしらえてくれ」 「あら、結城さん、今日はどうぞしなはったか。えろう遅おましたな。なんや顔色が悪おまっせ」 「ああ、ちょっとね、気分が悪いのだよ。お主婦、大急ぎで頼むぜ」 「えらい忙しいこっちゃな。あんた、結城さんのいつもの御馳走《ごちそう》頼みまっせ」  お主婦はそのままどっしりと結城の前に腰をおろすと、にわかに相好《そうごう》を崩しながら、 「結城さん、今日はえらいおもしろいことがおましたんだっせ。いつもうちへ来てくれはるお客さんがな、昨夜東京駅へあの人、ほら、なんたらいう女優さんを見にいきなはったんやそうな。ところがそのお客さんの写真が、ちゃんと今日の新聞に載ってるやおまへんか。それもあんたあのお爺《じい》さんの隣りに。お客さんぼやくまいことか、ぼやくまいことか、あの時お爺さんに足を踏まれて、じっとにらんだったんやそうです。それでいてあんた、その人が鮫島勘太やとは気がつかなんだもんやな。一万円|儲《もう》け損のうたちゅうて、さっき来なはってえらい騒ぎだしたがな」  結城皎平はそういうお主婦の饒舌《しやべり》のあいだ、いかにも浮かぬ顔をしてぼんやりとそばの鏡の中をのぞき込んでいる。普通ならこういうさまざまな反響を聞いて喜んでしかるべきだった。しかし現在の彼には少しもそういう様子が見えないばかりか、むしろ反対に、いかにも苦しげな焦燥の表情が見える。 「結城さん、あんたどうぞしなはったんか」 「うん、なにしろたいへんなんだ」 「たいへんて、いったい何がたいへんやの」 「なに、お主婦に言ってもはじまらない」  皎平が苦笑《にがわら》いをした時である。 「お主婦さん、水を一杯くれないか」  と、さっきの男が向こうから呼んだ。皎平はその声ではじめて、その男のほうを振り返って見たのである。  男はちょうどその時、ポケットの中から奇妙な七つ道具を取り出していた。注射針に小さいガラス容器、青い紙包み、そんなものを小皿《こざら》のかげに並べている。やがてお主婦がコップにくんだ水を持ってくると、それで白い粉を溶かしてそいつを注射器の中に吸い込んでいる。 (モヒ患者かな)  皎平が横眼でそれをにらんでいると、男はまもなく左の腕をまくしあげて、プツリとそれに注射針を打ち込んだ。 「フーム」  男は低いうめき声をあげると、そのままテーブルの上に顔を伏せたが、見ているとその面上からは次第に苦痛の色が消えていく。そしてこんど顔をあげた時には、例の左の頬っぺたの皺《しわ》がすっかり取れて、歪《ひず》みになった顔が一瞬間、普通の顔になった。  眉の太い、唇《くち》のしまったいい男なのだ。  だが、この瞬間結城皎平は何に驚いたのか、ドキリとしたように椅子《いす》から腰を浮かしたのである。その動作があまり急激だったので、テーブルの上の湯飲み茶碗《ぢやわん》がひっくり返ったくらいだ。  男はびっくりしたように、ピクリと眉を動かすところを見た。しかし、その顔はまたもやもとの歪《ひず》みにかえっている。薬が足りなかったのかもしれない。果たして男はもぞもぞとポケットを探ると、小さな紙袋を取り出したが、その中にはもう一包みも残っていなかった。 「畜生!」  男は腹立たしそうにそいつを土間にたたきつけると、大急ぎで例の七つ道具をしまい込み、それから勘定を払って出ていった。 「お主婦」  皎平も大急ぎで立ち上がると、 「御馳走は預けておく。急に用事を思い出したから、今日は失敬」  呆気《あつけ》にとられているお主婦を残して、疾風のように縄暖簾《なわのれん》の外へ飛び出していったのである。    棺の中 「それじゃきみ、どうしても断念せにゃならんというのかね。いったい、なんといって、世間に謝ったらいいんだい」 「それは社長、なんとか私がこじつけてみましょう。しかし、とにかくこの計画は中絶しなければなりませんよ」 「やれやれ」  東都新聞社の社長河野氏は大きな腹をゆすぶりながら、情けなさそうな声をあげた。 「世間であんなに騒いでいるのになあ。この十年あまりおれゃこれほどすばらしいヒットを経験したことがないぜ。取次店の報告によっても、この一週間あまりのあいだに二万からの読者が殖えているじゃないか。そいつを今さら急に中止するなんて、おい、栗原君、きみのような知恵者でもどうにもならんのかね」 「どうおっしゃられても、無から有を出すわけにはまいりませんよ。それは社長の苦衷《くちゆう》はお察しします。いや社長より私の立場はもっと苦しいですよ。なにしろやりかけた仕事を中止するなんて、社の威信にかかわりますからね。しかし、どうもこればかりはどうにもなりませんよ」  鶴《つる》のように痩《や》せて骨ばった編集長の栗原氏は、布袋腹《ほていばら》の社長とは実にいい対照を見せている。一見いかにも温厚そうな老紳士だが、一皮|剥《は》げば近藤勇という綽名《あだな》があったくらい、新聞界でも有名な闘士なのだ。だが、さすがの近藤勇も今夜ばかりは、どうにもあがきのつかぬ表情をしているところをみると、よほど困ったことが起こったのにちがいない。第一社長が今時分まで残っているということからして、並み並みならぬ事件の突発を思わせるのだ。 「それにしても結城のやつはどこへ行きやがった。あいつは当の責任者じゃないか」 「いや、奴《やつこ》さんもさんざん苦しんでいますよ。今ちょっと飯を食いに出かけたんですが、もうおっつけ帰ってくるでしょう」  だが編集長の言葉もまだ終わらないうちに、当の結城皎平が風のように躍り込んできた。 「あ、社長」  と、皎平は息を弾ませながら、 「編集長も、ちょうどいいところでした。実は今たいへんな代物《しろもの》を見つけてきたところです」 「どうしたんだ結城君、もっと静かに話ができないものかね」 「いかに編集長のお言葉でも、これが静かにできますかってんだ。社長、ちょっと恐れ入りますがお耳を拝借」  皎平が何やらボシャボシャとささやいているうちに、社長の顔にはみるみる大きな驚愕《きようがく》の表情が浮かんできた。 「そ、そんな馬鹿なことが」 「いえ、ほんとうなのです。とにかくぼくはそうするよりほかに、社を救うみちはないと思います。編集長、ちょっと」  編集長もその話を聞くと、すっかり魂消《たまげ》てしまったらしかった。 「結城君、きみは気でも狂やしないか。そんな馬鹿げたことが、東都新聞ともあろうものが、そんなインチキができると思うのかい」  編集長は驚くというよりもむしろあきれてしまったらしかったが、社長はしかし、そのあいだにすっかり肚《はら》をきめてしまったらしい。 「いや、栗原君、一概にそう言ってしまうものではないぜ。とにかくこれは一考の要がある。ただ肝心なのはその代物だが……」 「だって社長、そんな、そんなことができると思うんですか」 「できるかできないかとにかくやってみるさ。おれゃね、この事件にゃ朝陽新報の手が働いてるにちがいないとにらんどる。口惜しいじゃないか。みすみす相手の陰謀に負かされてしまうのは。結城君。その男はどこにいるんだ」 「会議室に待たせてあります」 「よし、それじゃちょっと首実検をしてみよう。栗原君、きみもいっしょに来たまえ」  三人が会議室へ入っていくと、例の男がぼんやりと椅子に腰をおろしている。テーブルの上には注射器が放り出してあって、今注射が終わったところらしい。例のゆがんだ顔もまっすぐになり、いかにも満ち足りた表情《かおいろ》なのだ。  社長と編集長とは、この男の顔を見ると思わずぎょっとしたように顔を見合わせた。それからまるで値踏みでもするように、四方からその男の様子をながめていたが、急にフームと低いうなり声をあげると、 「結城君、お名前は?」  と、社長が尋ねる。 「降旗史郎《ふりはたしろう》さんとおっしゃるそうです。一昨日まで、台南丸《たいなんまる》に乗っていらしたそうで」 「降旗さん」  社長は降旗史郎の前にどっかと腰をおろすと、 「あなたは、どうしてここへ連れてこられたか、御存じですか」 「知りません。実はこのかたがすばらしい金|儲《もう》けがあるからとおっしゃるんで、実は俺《あつし》、船のほうをお払い箱になってさし当たり困ってるもんですから」  薬が効いているせいだろう。降旗史郎はいかにも大儀そうにいった。社長はそれを聞くとすばやい視線を編集長のほうへくれた。栗原氏の顔にも次第に興奮の色が現われてくる。 「そう、この男の言ったことは嘘《うそ》じゃありません。様子によっては莫大《ばくだい》なお礼を差し上げてもいいのです。ところで、船のほうを首になられた理由は」 「実は、持病の神経痛が次第に亢《こう》じてくるもんですから、なに、薬さえありゃ構わねえようなものの、何かと不便なもんですから」 「陸《おか》では何か就職の目当てでも」 「それがからきしなんで困っていますのさ。船乗りは陸《おか》へあがると河童《かつぱ》も同然なんで、それに親戚《みより》でもありゃなんですが、東京にゃ一人も知人がねえもんですから」 「お郷里《くに》は?」 「熊本のほうなんで、でもなんしろ二十年も船に乗っていて、そのあいだに内地の土を踏んだのは二度か三度きりしかねえもんですから」  社長の顔には次第に満足の表情《いろ》が濃くなってくる。社長は急に体を起こすと、 「栗原君、おれはよさそうに思う。だめだめ、きみがなんと言ってもおれはもう肚《はら》を決めたよ。あとは万事きみから話してあげてくれたまえ」  編集長はちょっと困った顔をした。しかし、いったん言いだしたからには金輪際《こんりんざい》あとへ引かぬ社長の気質を知っているし、それに彼自身にしてもなんとかこの暗礁を漕《こ》ぎ抜けたい肚は十分にあるのだ。 「よろしい、一か八《ばち》かやってみることにしましょう」  栗原氏は急に降旗史郎のほうへ体を乗り出すと、 「降旗さん、あなたはこのたびのわが社の催し物について御存じでしょうね」  降旗史郎は眼をパチパチとさせると、 「へえ、知ってる段じゃございません。俺《あつし》はもう魂消《たまげ》ちまって。実は今朝はじめて東京へ足を踏み入れたんですが、驚きましたね、あのポスターにゃ。俺《あつし》ゃてっきり自分の写真が貼《は》り出されてるんだとばかり思いやしたよ」 「ほうらみろ、栗原君、当人自身がすでにそれを認めてるじゃないか」 「ところで、降旗さん」  編集長は社長の言葉に耳もかさず、 「この計画にわが社が、どれほど力瘤《ちからこぶ》を入れているかわかっていただけるでしょうな。実際、今までのところこの計画は予想以上の大成功をおさめているんです。したがって、この計画をにわかに中止しなければならんということになると、わが社がどれほど大きな痛手を負わねばならぬか、おわかりでしょうな」 「へえ」 「ところで、不幸にもそういう事態に立ち至ってしまったのです。ここに何か奇跡でも起こらないかぎり、この企てを進めていくことができなくなったのです」 「どうしてですか。鮫島勘太とやらいう俳優が、急に不平でも言いだしたのですか」 「いや、それ以上のことが起こったのです。社長、すっかり打ち明けたほうがいいでしょうな」 「ふむ、おれもそのほうがいいと思う」 「それでは降旗さん、ちょっとこっちへ来てください」  編集長は立ち上がって、錠のおりたそばの押し入れをひらいた。押し入れの中には大きな白木の箱がある。編集長はその蓋《ふた》をちょっと上げると、 「中を見てください」  降旗史郎は中をのぞき込んだ。と同時に、彼は声も立てずに二、三歩うしろへ飛びのいた。しかしすぐまたそばへ駆けよると、箱のふちに手をかけたまま、飛び出しそうな眼つきで箱の中をのぞき込んだ。  箱の中には一個の屍体《したい》が横たわっている。その屍体の顔には見覚えがあった。さっき新聞で見た、あの矢印のついた老人なのだ。しかもその老人の首には、肉に食い入るばかり絞めつけられた、赤い絹の紐《ひも》が巻きついているのだった。    食うか食われるか 「鮫島勘太《さめじまかんた》ですな」  よほどしばらくたってから降旗史郎がいった。 「そうです」 「殺されたのですか」 「そうです」 「いったいだれが……どうして……」 「わからないのです。がまあ、向こうへ行って話をつづけましょう」  二人は再び社長や皎平《こうへい》のそばへ帰ってきた。社長は黙然として胸の鎖をいじっている。皎平もこれまた無言のまま、いかにも不安でたまらぬというふうに部屋の中を歩き回っている。 「あの屍骸《しがい》はね、ああして箱詰めになって今日の午《ひる》すぎ私あてに送ってこられたものです。むろん送り主はわかりません。だがこれが何を意味しているかわかりますか。この殺人事件は鮫島勘太個人に対する怨恨《えんこん》でなくて、東都新聞の繁栄を嫉視《しつし》する何者かの陰謀にちがいないと思われるのです。鮫島勘太が死んでしまえばもうこの計画はつづけることができない。そうなれば読者との約束の手前、本社は非常な打撃をこうむることになる。それが犯人のつけ目なんです。だが、相手の肚《はら》がわかっていればいるだけ、われわれは屈服を欲しないのです。少しフェヤーでないかもしれないが、あくまでこの目論見《もくろみ》を遂行して、相手の鼻をあかしてやりたいのです。そこであなたの御助力がぜひとも必要になってくるわけなんですがね」 「というと?」 「つまりね、あなたに鮫島勘太の役割を代わって演じていただきたいのです。いやいや何もそう驚くことはない。あなた御自身もあの男に瓜《うり》二つというほどよく似ていることを認めていられる。実際われわれもさっき、あなたをここで見た時には、鮫島勘太が例の扮装《ふんそう》術でわれわれを欺いているのだと思ったくらいですよ。もしあの屍骸さえなければ」 「しかし、しかし」  降旗史郎もやっと気を取り直すと、 「あの男が死んだことはもう外へ知れているのでしょう」 「いや、ところがそれを知っているのは、ここにいる四人のほかに一人もないのです」 「しかし、犯人は?」 「犯人がいったい、何ができるというのです。まさか、自分が鮫島勘太を殺したのですから、あいつはもう死んでいるはずだと訴えて出ることができると思いますか」 「しかし、あの男には親戚《しんせき》もあれば友人もあるでしょう。いかに顔が似ていたからって、その人たちの眼を欺くことができようたあ思いませんし、それに第一|俺《あつし》ゃあの男みたいに変装が上手じゃありませんからな」 「いや、その点については心配御無用、結城《ゆうき》君、こんどは一つきみのほうから話してあげてくれ」 「承知しました」  どうやら降旗史郎の意《こころ》がだいぶ動いているらしいことを見てとった結城皎平、にわかに活々《いきいき》とした眼つきになって、 「私から話しましょう。鮫島勘太はね、この計画が発表される一ヵ月も以前から、変装変名で小石川のアパートに住んでいるんです。だれ一人それが勘太だと知る者はないし、それにまた、扮装については一人の助手があるから、万事その人がうまくやってくれるでしょう、助手というのはね、本郷にある弥生《やよい》美容院のマダムで、春岡弥生という女です。これが勘太の昔の恋人で……まあ、そんなことはどうでもいいが、だが、あなたは小石川のアパートから、毎日本郷の弥生美容院へ出かけてくれさえすればいいのです。するとマダムが適当に扮装をほどこしてくれる。そこであなたはぶらぶら町へ出かける。私がその写真を撮影する。ただそれだけのことです。簡単な話じゃありませんか」  降旗史郎は黙っていた。しばらく三人の顔を見比べていた。だが、急ににっこり微笑《わら》うと——ああ、その微笑《わら》い方からして鮫島勘太そっくりだと皎平は思ったのだが——決然として、 「やりましょう。おもしろそうですね。俺《あつし》ゃもうそういう冒険がお飯《まんま》より好きなほうでしてね」 「やってくれますか」  社長と皎平がほとんど同時に叫んだ。 「やりましょう。なあに俺だってまんざら無器用なほうじゃない。人のやれることなら俺にだってやれまさあ」 「しかしね」  編集長が急に心配らしく眉をひそめて、 「ここに注意しなければならんのは、鮫島勘太を殺した犯人のことですよ。そいつはね、人殺しをあえて辞せぬくらいの人物だから、贋《にせ》勘太が現われたとなれば、またどのような手段に出ないとも限りませんが、万一あなたの身に間違いでもあると……」 「だから俺《あつし》ゃ引き受けるんです。俺《あつし》がそいつを恐れているとでも思っていらっしゃるなら大ちがいですよ。おもしろいじゃありませんか、命のやりとり。とにかくやれるところまでやりましょう。どうせ人間、食うか食われるかなんだ」  降旗史郎は決然として、太い眉を動かした。いや、その頼もしさ。    碧漾《へきよう》荘の住人  一週間たった。  人間カメレオンの人気はいよいよ高まるばかり、東都新聞の売れ行きは日に日にすばらしい勢いで増加していく。降旗史郎は自らも公言したごとく、決して無器用なほうではなかった。いやいやその巧妙なる出没には、むしろ鮫島勘太をしのぐものすらある。だれ一人それが贋者《にせもの》だと気づく者もない。降旗史郎がひそかに皎平に漏らしたところによると、弥生美容院のマダム、春岡弥生さえまだ気がついていないというのだ。すばらしいジョーク、すばらしいスリルだ。  河野社長はすっかり悦に入っていた。とにかくこの一月さえ無事にすめばいいのだ。後はまた後で、なんとか方法があろう。  だが好事魔多《こうじまおお》し、突然この計画に罅裂《ひび》の入る日が来た。しかもそれは思いがけない方向から、世にも恐ろしい形となってやってきたのである。  ある日東都新聞社へ、編集長に会いたいといって一人の若い娘がやって来た。地味な洋装をした、活々《いきいき》とした感じの娘なのだ。取り次ぎの者が用件を尋ねると、小石川の逢初《あいぞめ》アパートに住んでいる葉山謙吉のことについてお話ししたいことがあるという。  編集長はそれを聞くと思わずドキリとした。無理もない。葉山謙吉とは鮫島勘太が世をしのぶ仮の名ではないか。 「とにかくこちらへ通してくれたまえ」  編集長は取り次ぎの者にそう命ずると、すぐ社長と結城皎平とに電話をかけた。二人ともそれを聞くと血相変えてやってくる。三人が額《ひたい》を集めてひそひそと相談をしているところへ、その娘が入ってきた。 「わたくし、陶山美智代《すやまみちよ》と申します。逢初アパートの経営者の娘なんですの」  美智代はさすがにドギマギとした様子で、まずそう自己紹介をした。 「はあ、それで、御用とおっしゃるのは」 「あの、わたくし葉山さんのことでまいったのですけれど、わたくし葉山さんが鮫島勘太さんであること、とうから知っていましたの」 「はあ、はあ」  編集長は思わずほかの二人と顔を見合わせながら、 「どうぞお掛けなすって。それで?」  美智代はもじもじと椅子《いす》に腰をおろすと、三人の顔をかわるがわるながめながら、 「わたし、お尋ねしたいのですけれど、近ごろ鮫島勘太と名乗って活躍しているあの人が、ほんとうはそうでないということを、こちらでは御存じなのでしょうか」 「なんですって!」  皎平が思わずせきこむのを、編集長は眼顔でしっと制しながら、 「それはまた異《い》なことを承りますな、するとなんですか、近ごろのあの男は贋者《にせもの》だとおっしゃるんですか。いったいどういう根拠から」 「だって、だって……」  と、娘は急に涙ぐんだ眼になると、 「ほんとうの鮫島さんは一週間ばかり前に殺されたはずなんですもの」  美智代はふいに、わっと声をあげてテーブルの上に泣き伏したのである。  これには三人とも少なからず驚いた。勘太の殺されたことを知っているのは、四人の関係者を除いては、犯人よりほかに知っている者はないはずなのである。するとこの娘が——この可愛い娘が犯人なのだろうか。 「あなたのおっしゃることはよくわかりませんな。勘太が殺されたって? 馬鹿な! しかし、とにかくお話を承《うけたま》わりましょう。どうしてあなたはそうお考えになるのですか」 「お話しします。お話ししますからどうか勘太さんの敵《かたき》を討ってくださいまし」  そう言いながら美智代が話したのは、だいたい次ぎのような驚くべき事件だった。  美智代は勘太が葉山謙吉と名乗って、自分のアパートに住むようになってから間もなく、すぐその正体を看破したというのである。むろん、なぜ勘太がそんなことをするのかわからない。ひょっとすると、何かしらよからぬことでも働いて、しばらく身を隠していなければならないのかもしれない、そこで美智代はだれにも——当の相手の勘太にすら、そのことを打ち明けようとはしなかった。なぜなら、彼女は猛烈な勘太の崇拝者だったから。  ところがそれから間もなく東都新聞でこんどの計画が発表されたので、美智代にははじめて、勘太が素性を包んでいる理由がわかったのである。すると彼女には猛烈な悪戯《いたずら》心が起こってきた。彼女は勘太がどういうふうにして人を欺くか、それを見届けたかったので、毎日勘太のあとを尾行していたというのである。 「しかし、それならなぜあなたはあの男を捕らえなかったのですか。一万円という懸賞金がついているのに」 「だって、そんなことをすれば馴《な》れ合《あ》いだって疑われますもの。それに——それにあたし、勘太さんを失敗させたくなかったのですわ。あの人が最後まで成功されることを祈っていたんですもの」  編集長は思わずほかの二人と眼を見交わした。こいつ、お安くないぞといった眼付きなのである。 「なるほど、それで?」 「ところが今から一週間ほど前でした。ほら、久米京子さんが東京駅からお立ちになった晩、あの晩もやっぱりあたし、勘太さんのあとを尾《つ》けていましたの」  すると勘太は、あの老人の扮装のまま、東京駅を出るとまっすぐに雑司ケ谷にある碧漾《へきよう》荘というアパートへ行ったそうである。碧漾荘というのは女子大のすぐ近くにある、小ぢんまりとしたアパートだった。勘太はそのアパートへ入っていったが、ものの十五分も経《た》つと再び出てきたので、美智代がそのあとを尾けていくと、電車に乗って神楽坂まで出かけた。むろん例の老人の扮装のままなのである。勘太はその時、いかにもおもしろそうににやにやと微笑《わら》いながら、神楽坂をひと回りすると、再び電車に乗って碧漾荘へ引き揚げてきたが—— 「ところが電車がひどく混んでいたものですから、降りる時あたし少しおくれましたの。そこで大急ぎで女子大の坂を登っていきますと、なにしろあの辺は暗いでしょう。それに人通りってありませんし、あたし気味が悪かったのですが、それでも勇気をふるって登っていきますと、向こうのほうの、そう碧漾荘のすぐ間近でした。その暗がりに一人の男がたたずんで道の上を見ているんです。その男はあたしの姿を見ると、すぐびっくりしたように向こうへ逃げていきましたが、後であたしがその場所まで行ってみると、そこに勘太さんが……」 「死んでいたというのですか」 「ええ、首を絞められて!」  美智代は今さらのように、その時の恐ろしさを思い出したように身震いをするのだった。編集長はほかの二人の顔を見ながら、 「それで、あなたはどうしました」 「どうもこうも、あたしもう、怖くて怖くてそのまま逃げて帰りましたの。ところが翌日の新聞を見ても、その人殺しのことはどこにも出ていないでしょう。どうしたのかしらと思っていると、その晩おそく、殺された晩の勘太さんが、いいえ、葉山謙吉さんがひょっこり帰ってきて。……」 「ははあ、帰ってきましたか。それじゃ問題はないじゃありませんか。結局、あなたの見られたのは何か間違いですよ。酔っ払って倒れていたのを、あなたが早合点《はやがてん》で死んだものと思い込んでしまったのじゃありませんか」 「いいえ、いいえ、そんなことはありませんわ。あたしたしかに見たのですもの。首を絞められて、こう歯を食いしばって……」  と、言いながら美智代はまたもや涙ぐんだ眼で、三人の顔を見ながら体を震わすのだ。三人ともしばらく無言のまま、この娘の顔を見つめている。美智代のいうところは間違ってはいない。勘太はたしかに殺されたのだ。しかし今それを言ってしまえば何もかもおしまいになってしまう。さて、どういうふうにこの利口そうな娘を言いくるめたものだろう。  ふいに皎平が横あいから口を出した。 「ところであなたは、その時、屍骸《しがい》の上にかがみこんでいたという男の顔を御覧にはなりませんでしたか」 「ええ、なにしろ暗かったものですから、はっきりとは。……でも、逃げていく時、碧漾荘の門燈の下を通ったものですから、ちらとその横顔を見たのですけれど、なんですかこう、ひどくゆがんだ顔をした男で。……」 「ゆがんだ顔?」 「ええ、神経痛か何かなんじゃありますまいか。左の頻《ほ》っぺたがぎゅっと引《ひ》っ釣《つ》ったようになって、そうですわね、服装《みなり》は船乗りみたいな格好をしておりましたけれど」  ここに至って、社長をはじめ編集長ならびに結城皎平も、思わずぎょっとしたような眼を見交わしたのである。ああ、なんということだ。どうやら彼らは、勘太を殺した当の犯人を、勘太の身替わりに雇っているらしいではないか。    勘太の誘拐《ゆうかい》 「やっぱりそうですよ」  受話器をおくと皎平は暗い顔をして、社長と編集長のほうへ振り返る。 「碧漾《へきよう》荘でも、あの晩訪ねてきた老人が鮫島勘太だったと後にわかって大騒ぎをしたそうです。ところで、その晩勘太が訪ねた当の相手をだれだと思います。台南丸の二等運転士、降旗史郎という男。——しかも、その降旗史郎たるや、まぎれもなく、顔に恐ろしい引っ釣りがあったというのです。しかも、あの晩以来行方がわからないそうですよ」 「やれやれ」  編集長の栗原氏は思わず太い溜息《ためいき》をもらした。社長は無言のまま、しきりに胸の金鎖をいじくっている。美智代はもういなかった。なおいっそう、葉山謙吉と名乗って宿泊している男の動静をうかがってくれといって、たって彼女を追い帰したその直後のことなのである。 「いったい、これはどういうことになるんです。われわれは殺人犯人をお抱えにしているということになりそうですな」 「こん畜生!」  皎平は歯ぎしりをしながら、 「まんまとわれわれをペテンにかけやがった。だが、どうもわからない。いったいあいつは何をたくらんでいやがるんだろ」 「あの男が何をたくらんでいようとも、栗原君、これだけのことはよく心得ていてもらわねばならぬ。やりかけた仕事は最後までやり遂げてしまわねばならぬ」 「なんですって? 社長」 「降旗史郎が殺人犯人であろうがなかろうが、そんなことはわれわれの知ったことではない。あの男は非常に上手に立ち回っているじゃないか。それを利用せぬという法はない。わかったかね、栗原君、結城君。万事はこの催しが終わってからのことだ。それまでは絶対秘密だ。いいか、あの男自身にもこのことを覚《さと》られちゃいかんぜ」  社長はそれだけのことをいってしまうと、憤《おこ》ったように大きな腹をゆすぶりながら、さっさとその部屋を出ていってしまったのである。  こうしてまたもや一週間たった。人間カメレオンの人気はいよいよすばらしい。東都新聞はあちらでもこちらでも引っ張り凧《だこ》なのだ。新聞の上には毎日のように、勘太の新しい扮装が付け加えられていく。そのたびに東京市中には賛嘆と興奮と幸運を取りのがした人々の口惜しまぎれの爆笑が渦を巻くのだ。あのポスターの周囲にはすでに二十三のちがった扮装写真が貼りつけられた。そして、どうやらこの分でいくと勘太は無事に「三十の顔を持った男」になりおおせそうに見える。  ところが、この競技もあますところあと一週間という、八月二十三日の晩になって、突如栗原編集長のもとへ電話がかかってきた。陶山美智代からなのである。 「たいへんです、あの人が……あの人が……」  ただならぬ相手の気配に、編集長はドキリとしたように、 「どうしました。あの人って、ええ鮫島勘太君のことですか」 「ええ、そう、そうですの。その勘太さんが……」 「勘太君がどうしたというのです。電話が遠いのですが、はっきりおっしゃってください」 「勘太さんが今、誘拐《ゆうかい》されたのです」 「ええ!」  これには編集長も思わず受話器を取り落としそうになった。しかし、すぐそいつを握り直すと、 「どうしたというのです。もっと詳しくお話し願えませんか」 「いいえ、今はとてもその暇がありませんわ。あたし今、永代橋の東詰めにある自動電話にいるんですが、至急どなたか寄こしてくださいません? あたし勘太さんの監禁された場所を知っています。ぐずぐずしてると、明日からあの競技はつづけられなくなりますわよ」 「ありがとう、承知しました」  電話を切って栗原編集長、ただちにその旨を社長と結城皎平に通じると、そこで三人大急ぎで自動車に乗って飛び出したのである。  約束の場所には果たして、美智代が真っ青な顔をして、彼らの来援を待ち受けていた。 「あ、よく来てくださいましたわ。あたしもう心配で心配で……」 「いったい、どうしたというのですか」 「詳しいことは後でお話ししますけれど、あたし今夜も、こっそりあの人のあとから尾行していましたの。すると上野の近所まで来たとき突然|暗闇《くらやみ》から無頼者《ならずもの》が三人現われて、あの人を自動車に押し込むと、そのままどこかへ連れていく様子なんです。あたしもすぐ自動車でそのあとを尾《つ》けたんですが、自動車はすぐその向こうへ止まりました。そして、勘太さんを無理矢理にある場所へ連れ込んでしまったのです。ぐずぐずしてると、どんなことになるかわかりません。後生ですから、あの人を助けてください」  息もきれぎれに語る美智代は、眼には涙さえ浮かべ、全身が恐怖のために波打っている。贋者の勘太のために、彼女はどうしてこれほどまで心配するのだろう。  だが、東都新聞の連中にとってはそんなことはどうでもよかった。気になるのは降旗史郎の身の上なのだ。もし、あの男の身に間違いでもあれば、こんどこそ計画は水泡《すいほう》に帰してしまう。どんな犠牲をはらっても、あの男の体だけは救い出さねばならないのだ。 「ありがとう。よく知らせてくれました。それで監禁されている場所というのは?」 「すぐ向こうです。御案内しますわ。でも、自動車はここから返したほうがよくはありませんかしら。覚《さと》られるとたいへんですもの」  美智代の頭脳のいい忠告にしたがって、自動車をその場から返した三人は、暗い夜道を隅田《すみだ》川に沿って下っていった。ゴミゴミとした場末の街を突き抜けると、やがて向こうに造船所の煙突が、おりからの軍需景気のせいだろう、暗い夜空に煙を噴きあげている。潮の香《にお》いが次第に強くなって、河岸《かし》を洗う波の音がだんだん高くなってきた。海に近いのだ。 「あれですの」  ふいに美智代が立ち止まって、河岸につないである一|艘《そう》の汽船を指さした。おそらくそれは廃船にでもなっているのだろう。ペンキの剥《は》げた、半ば壊れかかった船が、赤い船腹を見せてゆうゆうと暗い波の上に揺れているのである。    贋勘太仮面を取る  天井の低い、がらんとした船室なのである。煤《すす》けたランプが黄色い炎をあげて、臭い油煙の匂《にお》いが狭い部屋いっぱいにみなぎっている。  その部屋の一|隅《ぐう》に壊れかかったべッドの上に雁字搦《がんじがら》めに結《ゆわ》えられて放り出されているのは、いわずと知れた降旗史郎。今日は田舎《いなか》の村長さんといった扮装なのだ。その降旗史郎の前に突っ立って、冷然と相手の顔を見おろしているのは、年齢は、さよう三十二、三であろうか、抜けるように色の白いきれいな女だった。  弥生《やよい》美容院のマダム春岡弥生なのだ。  腰の締まった黒い洋装に、華奢《きやしや》な体がいっそう細くしなやかに見えて、白魚《しらうお》のような指にはめたダイヤの指輪がチカリと光る。 「とうとう尻尾《しつぽ》を現わしたな。どうせこんなことだろうと思っていたよ」  降旗史郎は縛られたまま、毒々しい声をあげて笑う。 「おい姐《ねえ》さん、だれに頼まれてこんなことをするのさ。朝陽新報の連中にかい? だけどまさか、あいつらだって、勘太を殺してくれって頼みやしなかったはずだがな」 「だれに頼まれたっていいじゃないか。あたしは自分でしたいことをしているんだよ」  弥生はかすかに眉《まゆ》をあげると、憎々しげに相手の顔を見おろしている。白い瞼《まぶた》の際《きわ》がぼっと紅に霞《かす》んで、すごいような美しさだった。 「ふふん、それじゃおまえさん、自分の遺恨から勘太を殺したというのかい。ええおい、姐さん、どうせおれゃこのまま暗いところへ送られてしまうんだろ。聞かせたっていいじゃないか。冥途《めいど》の土産に聞いておいて、向こうで勘太のやつに会ったら話してやりたいよ」 「ふん、話してもいい」 「だれに頼まれたのさ」 「今おまえさんが言った連中よ」 「ああ、やっぱり朝陽新報の連中だな。なんて野郎だ」 「名前は言えないよ。もっともこれは朝陽新報全体の意見じゃなくて、単にその人だけの考えらしいんだがね。だけど、いかになんでも名前だけは言えないよ」 「わかった。で、そいつが勘太を殺せって頼んだんだな」 「なあに、そうじゃないの。その人の頼みというのは、単に勘太を一ヵ月のあいだだけ、どこかへ監禁しておいてくれというんだったけど、あたしひと思いに殺しちまったの」 「なんの恨みで?」 「さあ、なんの恨みか考えてみるとよくわからないわ。まあ強《し》いていえばあの男が、会うたびに美智代とやらいう女の惚気《のろけ》を聞かすじゃないか。それが癪《しやく》にさわったのかもしれないわね。ほほほほほ、女心ってそんなものなのよ」  贋《にせ》勘太はちょっと驚いたような顔をして相手を見たが、すぐまたにやにやとして、 「ふふふ、そうすると、きみは全然あの男と手が切れてなかったというわけかい」 「さあ、どうだか、自分じゃなんの未練もないつもりだったんだけどね、やっぱりわからないわね、女の心ってものは。今じゃいくらか後悔しているのよ」 「ありがとう、姐さん、それだけ聞けば十分だよ。それでこれからおれをどうするつもりだい」 「どうするって、そうね。どうせこれだけのことを話してしまったからには生かしておくわけにはいかないわね」  弥生は疲れたような、けだるい声音でいうと立ち上がった。 「ありがたい幸せだ。だが、どういうふうにして殺すんだね。首を絞められるのはまっぴらだな。そうかといってピストルもいやだ。ピストルというやつはどうも色消しでいかんよ。願わくば匕首《あいくち》ということに願いたいね」 「いいわ、お望みどおり匕首にしてあげるわ」  弥生はすらりと黒い洋装の下から鋭い白刃《はくじん》を抜きはなった。さすがに顔色は真っ青になって、細い指が震えている。 「あっ、そいつで一|掻《か》き咽喉《のど》をえぐられるか。あんまりいい気持ちのものじゃないね。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏」 「よくって」  弥生がふいに身震いをするそばへ進み寄った。 「あ、ちょっと」 「何よ、まだ何か用事があるの」 「なに、ひと言忠告しておきたいことがあるんだがね、おれの咽喉をえぐるのもいいが、その前にちょっと背後《うしろ》を振り向いたらどうかな」  弥生はその声にさっと背後を振り返ったが、そのとたん、すさまじい叫び声をあげた。 「畜生っ!」  ふいにきりりと柳眉《りゆうび》を逆立てて、遮二無二《しやにむに》降旗史郎のほうへ突っかかってこようとするのを、いきなりうしろからとびついて抱きしめたのは結城皎平だ。 「美智代さん、早く早く、その人の綱を解いてあげたまえ」  勝敗は一瞬にして終わった。匕首をたたき落とされ、床にねじ伏せられた弥生は、真っ青な顔をして唇《くちびる》を噛《か》みしめている。 「ああ、ありがとう、社長も、編集長も、これはどうも、わざわざおいでくだすって恐れ入ります。それで、今のこの女の告白はお聞きになったでしょうな」 「ふむ、聞いた。実に驚くべきことだな」  社長は例によって太い金鎖を、赤ん坊のような指でいじくっている。栗原編集長はいかにも困ったような顔で、そこにいる男と弥生の様子をかわるがわるながめながら、しきりに顎《あご》をなでているのだ。 「いったい、このあたしをどうしようというの」  ふいに、弥生がヒステリックな声をあげる。 「どうしようもないさ。きみは監獄行きだぜ」 「どういう罪で?」 「知れたことさ、鮫島《さめじま》勘太殺害の罪でさ」 「ほほほほほ、いいわね」弥生はふてぶてしい声をあげると、 「そうするとどういうことになるの。東都新聞は今まで贋者の勘太を使って、世間を瞞着《まんちやく》していたということになるのね。いいわ、どうせあたしは覚悟を決めているんだから。その代わり東都新聞を道連れにしてやるから、そのことをよく覚えておいで」  編集長はこれを聞くと、困った顔をいっそう、しわしわとしかめてみせながら、 「社長、この女のいうことはほんとうですよ。もし、このことが露見したら。……」 「しかし、編集長、殺人犯人をこのまま見逃すわけにはいきませんよ」  皎平は思わず激した表情《いろ》を見せる。  さすがの社長も思わず太い溜息《ためいき》を漏らした。この中にあって泰然としているのは、当の降旗史郎と美智代のただ二人、降旗史郎はふいににやりと微笑を漏らすと、 「美智代さん、もういいだろう。きみの知っていることを、この人たちに話しておあげ」 「ええ」  美智代はいくらか気後《きおく》れがしたような微笑を浮かべながら、 「あの、あたしいつか申し上げたことを訂正したいと思いますの。あたしこのかたを贋者だとばかり思っていたんですけれど、よくよく気をつけていたら、やっぱりこのかた、ほんとうの勘太さんでしたわ。あたしもっと早くこのことを申し上げようと思ったのですけれど、こちらが言っちゃいけないとおっしゃるので……」 「な、なんだって」  そういう叫びは、ほとんどそこにいる四人の唇から同時に発せられたのである。 「こ、この男がほんものの勘太だって?」 「そうですよ。社長さん、少しお考えになればわかりそうなものですね。いかに顔がよく似ていたからって、ほかの者に、あんなふうにうまく勘太の役目がつとまりますかってんです。そうですとも、私ですよ。社長さん、編集長、結城君、よく私の面を見てくださいよ。正真正銘、まざりけなしの鮫島勘太ですよ」  その時どしんと大きな音を立てたのは、社長が壊れかかった椅子《いす》の上に、大きな図体《ずうたい》を落としたからなのである。 「なんだって、それじゃ、きみは……きみは……」 「そうですよ。皆さんを欺いていたんですよ。しかしね、私にとっては相当の理由があったんです。鮫島勘太の扮装姿を知っているのは、あなたがたよりほかにありませんからね。その勘太が殺された以上、犯人はひょっとすると、あなたがたの中にあるのじゃないか、あるいはあなたがたの中に敵に内通しているものがあるのじゃないかと思ったんですよ」 「しかし、しかし、あの殺された男は?」 「あれですか、あれは私の兄貴です。降旗史郎といってね、私の義理の兄貴なんですよ。さあ、何もかも打ち明けちまいましょう。兄貴は船乗りでしたがね、三ヵ月ほど前に内地へ帰るから一度会いたいといってきたんですよ。ところがちょうどそれから間もなく、御社《おんしや》からこんどの話があったので、私は行方をくらまさなければならなくなった。そこで兄貴の寄港地へ手紙を出して、東京へ来て宿が決まったら、新聞の案内欄でちょっと知らせてくれといっておいたんです。その広告があの日の朝、新聞に出たもんですから、私は扮装のまま兄貴に会いに行ったんですよ。兄貴は私の姿を見、私の話を聞くと大笑いをしましたが、ちょっとその扮装を貸せというんです。私たちはそこで扮装を取り替え、兄貴に私がなりすまして外へ出ていったというわけです。まさか、その私の命をねらっている者があろうとは知らなかったんですね。私は一時間ほど待っていたがなかなか兄貴が帰ってこない。何か間違いが起こったのじゃなかろうかと思って、表へ出たはずみに兄貴の屍骸《しがい》につまずいたというわけです。あとは皆様も御存じのとおりですよ。その時私は警察へ届けて出ようかと思ったんですがね、そうすれば私はいやでもたびたび警察へ呼び出されなければならない。そうなれば結局、こんどの競技はおじゃんになってしまうじゃありませんか。私は責任を感じました。それに兄貴の敵《かたき》を自分で探したかったという点もあるのです。しかしそうかといって兄貴の屍骸をそのままにしておくわけにはまいりませんからね。そこで手篤《てあつ》く葬っていただこうと思って、東都新聞社へ送りとどけておいたのですよ。それにしても、あなたがたがみんな、あれを私と見違えてしまったには驚きましたよ。もっとも兄貴と私は、非常によく似ていたことは確かですがね、しかし、兄貴があの扮装をしていず、そして最後の苦悶《くもん》のために、顔があんなにゆがんでいなかったら、あなたがたといえども間違われるはずはなかったんですがね。さあ、私の話はこれでおしまいです。しかし、私はまだこの競技をつづけなければなりません。後一週間です。私は中途で物事をよすのはきらいなほうでしてね、警察のほうへはなんとかよろしく言っておいてください。明日からは、ここにいる美智代さんを助手にして、私はこのお芝居をつづけます。さようなら皆さん、あ、それから皎平君、扮装写真を、新聞に掲載する写真は、万事美智代さんに頼んでやってもらいます。毎日、間違いなく送りとどけますから心配なさらないで。さあ、美智代さん、これから一週間、完全に地下へ潜るんですよ。いいですか」 「いいわ、あなたのためなら」 「ありがとう、じゃさようなら、諸君」  あっという間もなかった。  鮫島勘太は美智代の手をとって、颯爽《さつそう》と闇《やみ》の夜に消えていったのである。  こうして、この奇抜な人間探しは完全に三十日間つづけられた。ということは、結局、だれ一人勘太の扮装を見破る者がなかったということを意味している。  しかし、そのことは読者のあいだに少しも不満を呼び起こしはしなかった。なぜというに、人間というものは、自分の逃がした幸福を他人がつかむことをかなりいやがるものだから、結局、自分の前を素通りにした幸運が、隣人の家に転げ込むよりも、むしろ、防空基金というような縁遠いところへ行ったほうが寝覚めも悪くないというわけなのである。  人々はみんな、自分がその一万円を献金したようなつもりになって、たいへんこの企《くわだ》てを祝福したということである。 [#改ページ] [#見出し]  風見鶏の下で     1  ある港町の山の手に、異人館に並んで一軒の妾宅《しようたく》が建っていた。この夢のようなささやかな物語は、その妾宅を中心として起こった出来事なのである。もっとも、異人館のほうもまんざら関係がなかったというわけではない。異人館と妾宅が並んで建っていたということが、この物語にちょっとしたロマンチックな色彩を投げている。と言って言えないこともないのであろう。  そこでもう一度はじめよう。  ある港町の山の手に、異人館に並んで一軒の妾宅が建っていた。  この妾宅の主は鈴代といって、ついこのあいだまで、同じ町の有名なカフェーで女給として働いていた女なのである。自分では二十二だと言っていたけれど、ほんとうはもっといっているのかもしれない。しかし見たところはどうしても二十そこそこにしか見えないほど、あどけない顔をしていた。  別に取り立てて美人というほどでもないが、下《しも》ぶくれの愛くるしい顔で、笑うと大きな靨《えくぼ》ができるのが愛嬌《あいきよう》だった。気性もその顔立ちに似て、闊達《かつたつ》な、物にこだわらない性分で、いつも円《つぶら》な眼をくるくるとさせてこみあげてくる笑いを押し殺しているといったような口もとをしている。  中年者の藤川が彼女に気を惹《ひ》かれたのはたぶんそういうところにあったのだろう。藤川は同じ町にある船会社の重役で、もとは船に乗っていたこともあるらしく、日に焼けた、たくましい腕をもった、年は四十二、三で、家には鈴代とはあまり年齢のちがわない娘もあるということである。  藤川は二、三度、鈴代の勤めているカフェーへ遊びにきて、すぐ鈴代が好きになった。そして間もなく二人連れだって、この妾宅を見にきたのである。 「よさそうじゃないか。静かだし、人目もなさそうだし、それに庭の広いのが気持ちがいい」  藤川はすぐこの家が気に入ったらしかった。 「そうね。でもずいぶん荒れ果てた庭ね、まるで廃墟《はいきよ》みたい」  実際、そう言った鈴代の言葉には少しも誇張の意味はふくまれていなかったのである。かなり長い間空き家になっていたらしいその庭は、ずいぶんひどいものになっていた。ちょうど六月初めのことで、名も知らぬ雑草がいっぱい茂っていて、足の踏み場もないくらいだった。 「なあに、庭の荒れているのは手を入れさえすればすぐよくなるさ。どうだ、気に入らないかね」 「あたしはどうでもいいの。あなたさえよければ」 「そんなことを言ってきみの家じゃないか。後でいやになってもはじまらないから、今のうちによく心を決めておかなきゃ」 「だからさ、あたしけっこうだと思うわ」 「よしよし、じゃ万事ぼくに任せておきたまえ。こんど来るまでにはびっくりするほどきれいに手を入れといてやるから」  藤川はそう言いながら、目測するように荒れ果てた庭をあちこちとながめていた。 「ええ、お願いするわ。これじゃ、なんぼなんでも化《ば》け物《もの》屋敷みたいですものね」  鈴代はおりからの西日をまぶしそうに避けながら、しばらくあらこちと歩き回っていたが、やがて、雑草の向こうから、 「あなた、あなた」  と呼んだ。 「なんだい」  藤川が近づいていくと、 「あれ、なんでしょうね。ほら、向こうの洋館の屋根についているもの」  鈴代はまぶしそうに小手をかざしながら、庭の向こうに建っている異人館の屋根を、ちょっと頤《あご》をしゃくって指さした。 「ああ。あれ? あれはウェザー・コック!」 「なに? そのウェザーなんとやらいうのは」 「日本語に翻訳すると、風見鶏《かざみどり》というんだね。つまりあれで風の方向を見るのさ」 「そうお、妙なものね」  鈴代はおもしろそうに笑ったが、しかし、それから間もなく、その風見鶏が自分の身の上にどのような関係をもってくるか、むろん彼女はその時、気がつくはずもなかった。     2  鈴代がなんとなく気のない様子を示していたからといって、この家が気に入らなかったのだろうと思ってはいけない。実はその時、彼女はもっと根本的な躊躇《ちゆうちよ》を感じていたのである。  彼女はその年になるまで女給生活をしながら、実は男というものを知ったのは藤川がはじめてだった。彼女ははじめて男の汗ばんだ顔をすぐ鼻の先に見た。そして男の荒々しい息使いを聞いた。それだけでも、彼女にとっては大きな驚異だったのに、すぐその後から藤川が家を一軒持たせてやろうと言い出したので、なんとなく怖いような気後《きおく》れを感じていたのである。しかし、彼女はけっして藤川がきらいだったわけではない。  年齢はかなりちがっていたけれど、それだけに頼もしいような気もした。  あけすけな笑い声や、てきぱきとした物の言いようにも好感が持てた。我武者羅《がむしやら》で、何か言い出すと、それを押し通す、押し通さねばおかぬようなやんちゃ[#「やんちゃ」に傍点]なところも悪くなかった。眉《まゆ》が太くて、頬《ほお》ずりをすると痛いほど髭《ひげ》が濃くて、抱きしめられると声が出なくなるほどたくましい腕を持っていた。結局、彼女は店を退《ひ》いて、あの異人館の隣りに、あまり気の利かない婆《ばあ》やと二人で住むようになったのである。  彼女がはじめてこの家に引っ越してきたのはあれからひと月ほど後のことだったが、なるほど家の周囲は見ちがえるほど小ざっぱりとしていた。雑草を刈りとってちょっとした花壇を作ったり、気の利いた庭樹を植えこんだ庭は、最初思ったよりまたいっそうひろびろとしていたし、日当たりもよく風通しも悪くなかった。彼女はすっかりこの家が気に入ってしまった。それに、そのひと月ほどの間に、彼女はすっかり肚《はら》を決めてしまってもいたのだ。  藤川は着物や帯といっしょに、ラジオや蓄音機や電話などを彼女のために買ってやった。  そして毎日一度は必ずこの家へ鈴代の顔を見にきた。会社の帰りに寄ることもあれば、いったん本宅のほうへ帰って、飯をすませてからぶらりと浴衣《ゆかた》がけでやってくることもあった。どうかすると朝から電話をかけてきて、昼飯の休みの時間に自動車で乗りつけてくることもあった。  しかし、泊まっていくようなことは、決してなかった。どんなに酒に酔っていても、十二時が鳴るとすぐ起き上がって、さっさと着物を着替えて帰っていくのである。 「あなた、やっぱりお帰りになるの」 「ふむ、帰る」 「…………」 「どうかしたのかい?」 「だって、たまには泊まっていらっしゃればいいのに」 「馬鹿だなあ。どうせ明日来るんじゃないか?」 「だって」 「いい娘《こ》だからおとなしく寝ておいで。明日は少し早く来ることにするから」  鈴代がどんなに鼻を鳴らして甘えても、藤川はとりあわないで、さっさと着物を着てしまうと、いくらか汗ばんだ鈴代の顔に接吻《せつぷん》を一つして帰ってしまう。鈴代は恨めしいような、自烈《じれ》ったいような気がしながら、こうして、だんだんと藤川に心を惹《ひ》かれていくのだった。ある晩、鈴代は、少しでも長く藤川を引きとめようとして、こんな話をはじめた。 「あたし、このごろ、気味が悪くてしようのないことがあるのよ」 「どうかしたのかい」  藤川はけだるそうな欠伸《あくび》を一つすると、それから例の太い眉をくしゃくしゃさせて彼女の顔を見た。 「別にどうって訳はないのだけれど、あたしこのごろ始終、だれかにつけ回されているような気がしてならないのよ」 「神経だよ。そんなこと」 「あら、そうじゃないわよ。現にあたし、何度となくその人の姿を見たんですもの。あたしが外へ出ると、いつでも、その人がどこからかひょいと出てくるのよ。あたし気味が悪くて、気味が悪くて——」 「男かい、女かい、それは」 「男よ、むろん」 「ふふん」  と、藤川は鼻を鳴らして、 「おおかた、不良だろうよ。きみがあまり美しいものだから」  と、あまり気にも止めないふうで言った。  鈴代は物足りなさそうに、 「でも、あたし気味が悪いわ。このあいだなんか向こうの丘の上に立って、じっとこの家を見ているんですもの。あたし、なんだかぞっとするくらい恐ろしかったわ」 「いったい、どんな男なのだね」 「それがね、あたし、混血児《あいのこ》じゃないかと思うの。とても色が白いの。ええ、まだ若い人——そう二十七、八かしら、黒い眼鏡をかけていて、いつも黒い洋服を着ているわ。とても背が高くて、歩くのにもこう、足音も立てないで歩くというようなところがあるのよ。あたし、その人とすれちがう時には、いつもぞっと冷たい風に吹かれるような気がするの。だからあたし、今日もまたあの人に会うのじゃないかと思うと、それだけでもう、散歩に出る時なんか胸がドキドキするんだけど」  藤川は黙って鈴代の顔を見ていたが、急に眉《まゆ》をひそめると、 「きみ、あれじゃないか」  と、尋ねた。 「あれって、何よ」 「赤ん坊ができるのたあちがうかい」  鈴代はそれを聞くと、一瞬ポカーンとして藤川の顔を見つめていたが、急に涙をポロリと枕《まくら》の上に落とした。藤川はびっくりしたように、 「やっぱりそうなのかい」  と、いくらか声を落とすようにして訊《き》いた。 「あなた、赤ちゃんができたら困る?」 「困る? さあね。しかし、ほんとうにそうなのかい、それならそうと、今のうちになんとかしなきゃ」 「あら、そんなことはないわ。赤ちゃんができるなんて、そんな、そんな、——」 「馬鹿だなあ」  藤川は白い歯を出して笑いながら、 「こうしていりゃ、赤ん坊ができるのになんの不思議もないじゃないか。しかし、それならそうと」 「ううん、そんなことはないの。そんな心配をしないで。だれが赤ちゃんなんか、あたし、いやいや」  そう言うと、鈴代はふいに藤川の胸に取りすがって泣きだした。     3  そんなことがあってからも、藤川は、相変わらず機嫌《きげん》よく通ってきたが、鈴代はそれ以来なんとなく気分がすぐれなかった。  彼女はふいと藤川と自分の間にある大きな溝《みぞ》に気がついたのである。  相手にはれっきとした細君もあれば、女学校へいっている娘さえある。どんなことをしたところで、いっしょになんかなれっこないのだ——。わかりきったことが今さらのように考え直されてくる。鈴代は悩んだ。子供を産んで相手を困らせてやろうかと考えたり、いやいやそんなことすれば、困るのは相手よりむしろ自分のほうなのだと考えてみたりする。結局、彼女は自烈《じれ》ったいような、歯がゆいような思いでいらいらするのだった。  ある日、鈴代は、あまりくさくさするので婆やに手伝わせて、虫干しをはじめた。藤川にこしらえてもらった着物を、ありったけ座敷にぶら下げて、さてその下に座っていると、さすがに女だけあって、うれしいような、懐かしいような思いがこみあげてきて久しぶりにはしゃいだ気持ちになった。 「婆やさん、着物を出したついでに、あたし押し入れの中の掃除をしてみるわ」 「おやまあ、奥さま、お止しあそばせよ。押し入れの掃除なら、この婆やがいたしますから!」 「いいのよ、あたしがするわ。今日はとても気分がいいのだから」  そう言いながら、彼女は早くも甲斐甲斐《かいがい》しく、手ぬぐいを姉さんかぶりにして奥の茶の間の押し入れへ這《は》いこんだ。  この家ははなはだ使い勝手が悪くできていて奥の六畳というのは、ぽつんと他のどの座敷からも孤立しているので、鈴代が化粧室にしているほかは、ほとんど使ったこともないような部屋だった。  その押し入れへ這いこんだ時、鈴代は、ふと妙なものを見つけたのである。その押し入れというのは、普通どの家にでもあるような真ん中に棚《たな》があって上下二段に分かれている。ところがその上の段の少し上のほうのところに、小さい窓が取りつけてあるのに気がついたのである。その窓というのは普通商家の表戸などについているような切り戸になっていて、二枚のガラス戸の外に、もう一つ板の戸がついているのである。 「まあ」  鈴代はびっくりしたように、はたきを持っていた手をとめた。押し入れに窓があるなんて、今まで、見たことも聞いたこともなかったからである。 「まあ、妙ね。どうしてこんなところへ窓をつけたのかしら」  念のために、ガラス戸をひらいて、外の板戸を繰ってみると、ちょうどその向こうに隣家の異人館についている風見鶏《かざみどり》がくるくると回っているのが見えた。 「ほんとにおかしいわ。押し入れに窓をつけるなんて」  そう言いながら、すりガラスのはまっているガラス戸をぴしゃりと締めると、ふと押し入れの中を見回したが、その時、そばの壁の上に奇妙な楽書きがいっぱいしてあるのに気がついたのである。  もし、外の板戸をひらかなかったら、むろん、暗い押し入れの中のことだから、そんな楽書きのあることなどに気はつかなかったであろう。だが、今はすりガラスを通して入ってくる鈍い光の中に、その奇妙な楽書きがくっきりと浮きあがっているのだ。  たぶん、マッチの軸か何かで書いたのであろう。それはみんな「蘭子《らんこ》」という文字だった。蘭子、蘭子、蘭子——と、ほとんど壁の上にあますところなく書いてあるのだ。いやいや、よく見ていると、その合間合間に、ところどころ、ジュアンという文字も見える。そして二、三ヵ所には、 [#挿絵(fig1.jpg、横128×縦249、上寄せ)]  と、相合傘《あいあいがさ》の中に書いてあるのもあった。  鈴代は急に気味が悪くなった。  だれがこんなところへ、こんな悪戯書《いたずらが》きをしたのだろう。こんな押し入れの中なんぞ!——押し入れなんてめったに人が入るところではないが、ひょっとすると、だれかこの押し入れの中に住んでいた者があるのじゃないかしら。  そういえば、こんなところに窓のついている理由もわかるし、それにふと気がついてみれば、壁の楽書きなども、ちょうどこの棚の上に寝そべったまま手をのばして書いたとすると、いいかげんの高さのところに多く書いてあるのである。  鈴代はゾッとするような気味悪さを感じた。彼女はもう掃除をする気などはてんでなくなった。そこであわてて、外へ這《は》い出そうとする拍子に、彼女はもう一つ変なものを見たのである。今まで気がつかなかったけれど、例のすりガラスの窓の上に、消えかかった鉛筆でなんだか奇妙な絵が書いてあるのだった。  よく見るとそれは人間の髑髏《しやれこうべ》のような格好をしているのだ。髑髏にしては少し形が変だったけれど、しかしそれよりほかに考えようがない。しかも、その絵の下に次ぎのような文句が書きつけてあるのがおぼろげに読みとれる。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  (ウェザー・コックには移り気という意味ありなん。ああ、移り気なる蘭子よ) [#ここで字下げ終わり]  鈴代はもうそれ以上、押し入れの中にいる気はしなくなった。彼女はおびえたような眼の色をして、あわててその押し入れから這い出したのである。     4  その晩、鈴代は藤川が来るとさっそくその話を持ち出した。 「ねえ、あなた。この家には前にどんな人が住んでいたか御存じない?」  藤川は洋服を小ざっぱりとした浴衣に着替えると、赤銅《しやくどう》色の厚い胸をはだけて、ぱたぱたと団扇《うちわ》の風を入れながら、 「そうさね。なんでも前に住んでいた人は、急に行方がわからなくなったんだそうだ。もう三年も前のことらしいがね。それ以来この家は空き家になっていたんだというぜ」 「まあ、そして、その人どんな人? 男のかた? 女のかた?」 「それがね、やっぱりきみみたいな若い女なんだね。この家はほら、妙に外界と切り離されている感じだろ。だから、ちょうどきみみたいな人が住むのに格好にできているんだね。いちばん最初に、この家を建てたというのも、やっぱり伊勢崎町へんの旦那《だんな》の世話になっていた女だというがね。しかし、そんなことどうだってもいいじゃないか」  藤川は濃い胸毛をふさふささせながら、例によってこだわらない調子で言った。 「どうでもよかないわ。だってあたし気味が悪いんですもの。それじゃきっとなんだわ。前に住んでいた人が蘭子さんというのにちがいないわ。そして、その人、急に行方がわからなくなったとおっしゃったわね」  鈴代がなんとなく浮かぬ顔をしているので藤川は所在なさそうに、籐椅子《とういす》によったまま団扇を使っていた。いつの間にか月が昇って海に近いその辺は、夜になるともうすっかり秋らしく色づいて冷え冷えとしていた。 「何を考えているんだね」  しばらくして藤川が振り返ると、鈴代はぼんやりと涙ぐんだ眼をあげて微笑《わら》った。 「何って、その蘭子さんのこと」 「馬鹿だな。そんなこといちいち気にしちゃきりがないじゃないか。どうせ都会のこういう家へ入れば、そりゃいろいろなことがあるさ」 「だって、あんまり妙ですもの」 「よしよし、それじゃおれがひとつ検分してやろう。いったいどこの押し入れだね」 「あら、あなた見てくださる。こちらよ。奥の六畳よ」  鈴代は急に活々《いきいき》とした眼付きになって自ら先に立って藤川を案内したが、がらりと押し入れの襖《ふすま》をひらいた瞬間、 「あれ」  と、叫んで藤川の広い胸にすがりついてしまった。 「ど、どうしたのだ」 「だって、——だって、——あれ!」  藤川も押し入れの中をのぞいてみてちょっと驚いた。鈴代は先ほどガラス戸を締めただけで外の板戸を締めておかなかったものだから、すりガラスの窓に、蒼《あお》い月光が映って、その中に奇妙な影がくるくると躍っているのが見えたのである。それは先ほど、鈴代がすりガラスの上に発見したあの髑髏《どくろ》とそっくり同じような格好をしていた。それがかすかにくるくると回っているのである。  藤川はすぐ、鈴代の手をはなして、中仕切りの上へ上がると、がらりとすりガラスの戸をひらいて外をのぞいたが、すぐ、うしろを振り返って、 「なあんだ、馬鹿馬鹿しい。向こうの風見鶏が映っているんじゃないか」  と、吐き出すように言った。 「あら、そう?」  藤川はびっしゃりと戸を締めると、 「楽書きというのはどれだね。あ、これかい、なるほど」  藤川はしばらく壁の上や、すりガラスの上をながめていたが、やがてもぞもぞと押し入れから這《は》い出すと、無言のまま、鈴代の手をとった。 「さあ、向こうへ行こう。こんなところにいちゃいけない」  もとの座敷へ帰ってきても、藤川はしばらくなんとも言わなかった。無言のままスパスパと煙草《たばこ》をくゆらしていたが、やがてわざとらしい生《なま》欠伸《あくび》をすると、 「おい、もう寝ようか」  鈴代が黙っているので、 「どうしたんだ。まだあのことを考えているのか、馬鹿だね。ありゃなんでもありゃしないのさ」  藤川は鈴代の手をとって、真正面からその眼の中をのぞきこみながら、 「前に住んでいた女がたぶん、あの押し入れの中にだれかをかくまっていたんだね。おそらく恋人かなんかだろう。その色男が退屈のあまり、あんな楽書きを書きつけておいたんだよ。ガラス窓に書いてあるあの奇妙な形だって、外から映ったウェザー・コックの影を、そのまま丹念《たんねん》にうつしとっただけのことさ。しかし、あの様子で見ると、奴《やつこ》さん、よっぽど無聊《ぶりよう》に苦しんでいたとみえるね。ははははは」  藤川は笑ったが鈴代は笑わなかった。やっぱり無言のまま考えこんでいる。 「おい、おいどうしたんだ。いやに湿っぽい顔をしてるじゃないか」 「その人きっとジュアンという名前なんだわ。そして、この家に住んでいた人、蘭子さんというのね」 「そうかもしれない。しかし、そんなことどうでもいいじゃないか」  藤川はぐっと鈴代を引き寄せると、冷たい額《ひたい》に接吻《せつぷん》してやりながら、 「それより、きみはそんな不埒《ふらち》なことを考えちゃいけないぜ。押し入れへ色男を隠しておくなんて、旦那こそ、いい面の皮だ」 「わからないわ、あたしだって」 「わからない?」 「あたしだって、そんないい人があればどんなにいいかしらと思うわ」 「こいつめ、こいつめ」 「だって、あたしほんとうに詰まらないわ。あたし赤ちゃんが欲しいわ。赤ちゃんを産んであなたを困らしてやりたいわ。だって、あなたはお家へ帰っても、奥さんやお嬢さんがいらっしゃるからいいけれど、あたしあなたが帰ったら、ほんとうにひとりぽっちなんだもの。詰まらなくって、淋《さび》しくって、やるせなくって。——」  と、言いながら、鈴代は男の胸へほろほろと涙をこぼした。     5  ところが真に驚くべきことには、鈴代のそういう自棄《やけ》の言葉は、間もなく真実となって現われたのである。  それから二、三日のち、鈴代はうしろの丘を散歩していて、ふと例の青年に出会った。  それはいつかの夜、彼女が藤川に話したあのぞっとするような気味の悪い青年であった。  青年はきょうも、黒っぽい洋服に長身をつつんで、黒い眼鏡をかけていた。そして、丘の先端にあるベンチに腰をおろして、ステッキの上に頤《あご》をのせるようにして、じっとそこから見える鈴代の家の庭を見下ろしていた。  丘の上はもうすっかり秋だった。そしてさやさやと吹き渡る風の中に、青年のうしろ姿が陽炎《かげろう》のようにゆさゆさとゆれているのが見えた。  鈴代はそのうしろ姿を見ると、ちょっと呼吸《いき》をのむような格好をしたが、すぐさりげない様子でそのそばへ近づいていった。青年はその足音につと顔をあげて鈴代を見た。透き通るような青白い顔だった。 「ジュアンさん、あなた、ジュアンというのでしょう」  鈴代は思わず声をかけてしまって、すぐそのあとではっと後悔したような表情を見せていた。  青年は別に驚いたふうもなく、かえって黒眼鏡の奥でにっと微笑《わら》ってみせたらしかったが、その微笑《わら》いは決して相手を楽しませるようなものではなくて、反対にぞっと全身を凍らせるような冷たさだった。 「あたし、あなたを知っていてよ。あなたのお書きになった楽書きを見たの。あなた、前にあの家にいらしたことがあるのでしょう」  青年は黙っていたが、明らかにそれは肯定を意味していた。鈴代は黒い帽子の下から房々と生え出している栗《くり》色の毛を見て、やっぱりこの人は混血児なんだわと思った。 「あなた、いつもこのへんをうろついていらっしゃるわね。何をしていらっしゃるの」  鈴代はジュアンのそばに並んで座った。ジュアンはそうっと鈴代のほうを見たが、すぐまたその眼をあの庭に落として、 「私は待っているんです」  と、低い声で言った。深い幅のある沈んだ声だった。 「何を待っていらっしゃるの」 「陰暦の八月十三日の晩の来るのを待っているんです」 「まあ、その晩に何かありますの」 「その晩の二時になると、私は蘭子に会うことができるのです」 「蘭子さんといえば、前にあの家に住んでいたかたなのね。そうでしょう。そのかた、いまどこにいらっしゃるの」 「蘭子は今でもあの家にいます」  鈴代はゾッと血が凍るような寒さを感じた。 「まあ、あの家にって、いったい、どこにいらっしゃるのでしょう」 「蘭子はだれにも気づかれないところにいます。私だけがそれを知っています。しかし、八月十三日の夜の二時にならなければ、私はあの女に会うことができないのです」  ジュアンは悲しげに眼を伏せて言った。  鈴代はちょっとの間、この人は気がどうかしているのではないかしらと思った。 「それであなた毎日こうして、家の周囲を見張っていらっしゃるのね」 「そうです。私はあの家へ入ることができませんから」 「どうして?」  鈴代は急に眼を輝かせて、 「いらっしゃいな、あたしの家へ。陰暦の八月十三日といえばもうすぐでしょう。それまであたしの家で待っていらっしゃいな、あの押し入れは今もあのままになっているの」 「そう、長いこと押し入れの中に住んでいました」 「だからさ。いらっしゃいよ。だれにもわかりゃしないわよ。それにあたしもう、退屈で退屈で気が狂いそうなのよ。ね。来てちょうだい、後生だから、あの押し入れの中へ来てちょうだいよ」  そう言いながら彼女は、ジュアンの冷たい手を握ってゆすぶるようにした。  後から思えば、鈴代はこの時からしてすでにいくらか気が妙になりかけていたのかもしれない。彼女は何者かに憑《つ》かれたようなおびえた眼の色をしながら、それでも抵抗することのできない力に引きずられるようにジュアンを伴って自分の家へ帰ってきた。  彼女は藤川に対して一つの秘密を持つ身になった。  だが、それ以来、彼女の藤川に対する愛情は恐ろしいほど昂《たかぶ》っていった。実際それは、あのたくましい、何にも打ちまかされないほどの強い精力を持っている藤川をさえ、どうかすると驚かせるほどであった。  彼女は片時も、もう藤川をそばから離したがらなかった。十二時になって、藤川がいつものように着物を着替えはじめると、鈴代はヒステリーのように泣いたりわめいたりした。  結局、藤川は彼女をなだめるために泊まりこんで、徹夜で介抱しなければならなかった。  一度、こういう先例がつくられると、あとは堰《せき》を破って滝津瀬のようにとどまるところを知らなかった。藤川はだんだん、この家に泊まる夜が多くなった。しまいには、会社さえ鈴代のために休む日が多くなった。     6 「さて、今夜は陰暦の八月十三日よ。あなたの恋人はどこからいらっしゃるの」  鈴代はジュアンの手をとって押し入れから引き出した。 「ありがとう」  ジュアンは相変わらず沈んだ声で、 「今夜は旦那さまは、お泊まりじゃないのですか」 「ええ、泊まると言ったけれど無理に帰したわ。あなたがたの邪魔になるといけないと思ったから」  ジュアンは押し入れから出て外を見た。 「いい月ですね。あの晩もちょうどこんな月でした」  ジュアンは黒い影を曳《ひ》いて庭へ下りた。しっとりとした静けさの中で、さらさらと露の散る音がした。ジュアンの顔は、蒼《あお》い隈取《くまど》りをしたお面のように蒼い。 「今、何時でしょう」 「そうね。もうかれこれ、あなたのおっしゃる二時ですね」  庭には蒼い月光が隈なく照り渡って、さまざまな木や草の影が、くっきりと地上に濃い模様を描いている。その中でいちばん奇怪なのはジュアンの影だった。  ジュアンは、夜露にぬれた髪の毛をかきあげながら、庭の向こうにある異人館を振り返った。そして、わずかな微風に動いている黒い風見鶏を指さした。 「二時になると、あのウェザー・コックがこの庭の中に影を落とします。そうすれば、蘭子の居どころがはっきりわかるのです」  ジュアンは疲れたように庭にある石の上に腰をおろした。そしてそばに立っている鈴代の顔を仰ぎながら、 「話をしましょうか。二時が来るまで」 「どうぞ」  鈴代は少し寒いと思ったが、そんなことはどうでもよかった。  それよりも月光の下で、この男の口から話を聞くのはどんなに楽しいことだろうと思っていた。 「蘭子は私を愛していました。そして、私を愛するのあまり、旦那に隠して私をあの押し入れの中にかくまっていたのです。しかし、蘭子は移り気な女でしたから、旦那や私だけで満足できなくて、さらに何人もの情夫をこしらえては、この家にひっぱりこんだのです。私には耐えがたいことでした。そこで私は、蘭子を自分ひとりのものにしておくために、殺してしまったのです」  ジュアンはあたりを見回した。月光はしんと澄みきって、あの風見鶏の影が次第に、彼の足下に這《は》い寄ってきた。 「ちょうど、今夜のように、月のきれいな晩でした。私はこの庭で蘭子を殺して土の中へ埋めました。そしてその埋めた場所をよく覚えておくために、あの風見鶏が二時になったら影を落とす場所を選んでおいたのです。そうです。三年前の陰暦八月十三日の晩でした。それから私はこの家を出て、神戸へ行きました。それから長崎へ行きました。さらに上海《シヤンハイ》まで渡りました。しかし私はどうしても蘭子のことが忘れられませんでした。私はもう一度蘭子に会いたくなって、ここへ舞いもどってきたのです。しかしこの庭は、その当時とはあまり様子がちがっています。私は蘭子を埋めた場所を探し出すことができなかった。そこで今夜まで待たなければならなかったのです。あ」  と、ジュアンは、ふと顔をあげると、家の中から聞こえてくる時計の音に耳をすました。 「あれは二時ですね」  ジュアンは立ち上がって、庭の中を見回した。風見鶏の影は、ちょうどその時、鈴代が丹精《たんせい》こめてつくった花壇の中央に落ちていたのである。 「あそこです。あの土の下に蘭子はいるのです」  ジュアンはそう言うと黒い旋風のようによろよろと石の上から立ち上がったのである。——  鈴代の姿は、その夜以来、見えなくなった。  もし、だれかが、次ぎの八月十三日の晩の二時に、あの風見鶏が影を落とすところを掘ってみたなら、そこに二つの女の白骨が抱きあっているのを発見したことだろう。藤川は、むろんそんなことを知るはずがなかった。  鈴代がいなくなって二、三日のち、藤川はふと気がついて、あの押し入れをひらいてみた。その壁の上には、蘭子、蘭子という文字の間に、新しく、鈴代、鈴代という字がいっぱいに書きつけてあるのを発見した。  藤川は太い眉《まゆ》をぴくりと動かすと、 「鈴代は馬鹿だ」  と、吐き出すように言った。そして、それきり自分から逃げた女のことを忘れてしまった。ほんとうは鈴代は、藤川から逃げたのではなくて、藤川恋しさに、一つになれぬもどかしさに、自らジュアンに頼んで首を絞めてもらったのだけれど。——  ジュアンの行方はわからない。ひょっとすると、次ぎの八月十三日の晩、またどこからかやってきて、ほかの女を殺して、そこへ埋めるのではなかろうか。なにしろ、この家は、藤川も言ったとおり、鈴代や蘭子のような境遇の女の住むのに格好のところだから。  風見鶏は、相変わらずくるくると、風に回っている。ウェザー・コックには、移り気という意味があるそうな。 [#改ページ] [#見出し]  音頭流行     一  今から考えると、どうしてあんなものが、ああむやみやたらと流行《はや》ったものか、あたしおかしくってたまらない。  何がって、ほらあの音頭《おんど》レコードよ。  やれ『みやこ音頭』だの、やれ『あやめ音頭』だの、やれ『道中音頭』だのって、そういう一夜|漬《づ》けの怪しげな音頭レコードが、じゃんじゃんレコード会社から売り出されて、そのたびに日本じゅうの人がだれも彼も、まるで熱にでも浮かされたように踊り出したじゃないの。全く気違いの沙汰《さた》だったわね。  考えてみれば、あの時分、日本じゅうの人はほんとうに、一人残らず一種の熱病に取り憑《つ》かれていたのかもしれない。陰鬱《いんうつ》な社会情勢の中で、だれも彼もが、吹っきれない、もやもやとしたものを胸の中に持っていて、それがあの流行音頭に向かって、爆発するようなはけ[#「はけ」に傍点]口を求めていったのかもしれない。生意気なことをいうようだけれど。  ところで、あたしがここにお話ししようというのは、その音頭流行の裏面に秘められた、世にも悲しい一|挿話《そうわ》なのよ。あたしこう思うの、こんな冗《くだ》らないお話でも、ひょっとすると後になって、昭和風俗研究家にとって、いくらか参考になりはしないかって。  なあんてね。そんなことどうでもいいけど。じゃそろそろお話しするから、まあお聞きなさいよ。  あれはたしか、昭和×年の八月のことだったわね。  その日あたし、本郷にあるアパートの一室で、朝からぼんやりとしてたの。西日がカアーッと真正面から照りつける、風通しの悪い部屋だったわ。部屋代が十五円で、しかもそれがもう三月もたまっているという悲しい状態。あたしもうなんともいえない、みじめな、やるせない気持ちで、何度|溜息《ためいき》をついたかしれないわ。  それというのが、ひと月ほど前まで働いてた昭和ダンシング・チームというのが、突然解散になって、それからこっち、あたしすっかり仕事にあぶれてしまったのよ。そう、その時分あたし踊り子だった。それも決して、ソロ・ダンサーかなんかじゃなくて、みんなといっしょに脚をあげたり首を振ったり、ほんに悲しい無名の踊り子。  まあ考えてみてもちょうだい。そういう貧しい踊り子が、仕事から離れて、ひと月も居食いしてるといったい、どんな悲惨な状態に陥るか。——およそお金になりそうなものは、あたしすっかりお金に換えてしまった。そしてその日、あたしはいよいよ、最後の土壇場《どたんば》まで来てた。あたしの身の周囲《まわり》には、もう金目のものって、何一つ残ってやしない。あしたからはいよいよ餓死するか、それとも——それとも思いきって、女の最後のものを切り売りするか。——ああ、いやなこった。思い出してもゾッとするわ。いや! いや! そんなことするくらいなら、あたしいっそ、餓死したほうがどのくらいましか知れやしない。  で、あたし、とつおいつ思案に暮れてたの。全く途方に暮れるって、あんな時の気持ちね。  ところが、そういう状態のあたしの部屋へ、その時、のっそりとおどり込んできたのが、諸井《もろい》栄三。——あたしのお話というのは、ここから始まるのよ。 「やあ、百合《ゆり》っぺ、いやに深刻な表情《かお》をしてるじゃないか」  諸井のやつ、いきなりそう吐《ぬ》かした。  そりゃあね、深刻な表情《かお》にもなるわよ。その時のあたしみたいな立場になってみれば。あたし腹が立ったけれど、それでもおぼれる者|藁《わら》でもつかむというあのみじめな心理で、ほんの、ちょっぴりお世辞笑いをしてみせた。もっと陽気に微笑《わら》いたかったけれど、その時のあたしの気持ち、義理にもそれ以上|微笑《わら》えなかったのよ。 「まあ、なんてサムしい面あしてるんだ。しっかりしろい、百合っぺ、手前らしくもねえぞ」  言い忘れたが、その時分あたし、深山百合子って名乗ってたの。 「そりゃ栄ちゃん、淋《さび》しくもなるわよ。この部屋ン中を見てちょうだい」  あたしが言うと、栄三のやつ、さも子細らしく部屋の中を見回していたが、やがて、感に耐えたように言ったもんです。 「おやおや、これゃどうしたんじゃい。まるで空き家みたいじゃねえか。何一つありゃしねえ」 「そりゃそのはずよ、みんなサバサバと売り払っちまったんだもの」 「フーム、そうかい、おめえ昭和ダンシング・チームを馘《くび》になってから、だいぶ悄気《しよげ》てるてえ話ア聞いたが、これほどひどいたあ夢にも思わなかった。そいで、百合っぺ、おめえこれから先、いったいどうするつもりじゃい」 「どうもこうもありゃしない。栄ちゃん、あんた何かいい知恵があったら貸してよ」  ほんとうならあたし、首が千切れたって、この男に向かってこんな弱音《よわね》は吐きたくなかったの。なぜといって、諸井栄三というこの男の、およそインチキなことを、だれよりもよく承知してるあたしだったから。  だれかが言ったっけ。都会の残滓《おり》を食い物にしてる男だって。全く適評と思うわ。あちらの会社、こちらの劇場と、あらゆる方面へ首をつっ込んで、相手の弱身につけ込んで、そいつを飯の種にしてる男。——諸井栄三とはそんな男なのよ。  ふだんならあたし、蜻蛉《とんぼ》のようにピカピカ油で固めたその男の頭や、悪《あく》どい宝石をギラギラ光らせてるその指や、それから、いやに悪党がったその言葉つきを、見たり聞いたりしただけでも胸が悪くなるくらいなんだけど、今はほら、前にも言ったような状態でしょう、それこそ藁《わら》でもつかむような気持ちでそう相談をかけてみたのよ。  すると栄三のやつ、いやにまじめくさった表情《かおいろ》でじろじろとあたしの顔を見てたっけが、 「百合っぺ、おめえ、それ本気かい」 「本気も本気でないも栄ちゃん、見られるとおりなんだから、ほんとうに頼んでよ」 「だって、百合っぺ、おめえいつだって、ぼくのことを悪党だの、インチキだのって言ってるじゃねえか」 「それは」  と、さすがにあたしも困ったが、 「そんなこと、昔の話じゃないの。あんたも男らしくないのね。譬《たと》えにもほら、窮鳥懐中に入れば猟師もなんとやらって言うじゃないの、後生《ごしよう》だから助けてよ」 「よしよし、おめえがそれほど言うなら、一つ侠気《おとこぎ》を出さないでもないがね、百合っぺ」  栄公のやつ、急にニヤニヤ微笑《わら》ったかと思うと、 「実をいえば、ここに一つ仕事があるんだが、おめえ片棒かつぐ気はないかい。そりゃ、どうせぼくが持ってくる仕事じゃから、まともな仕事じゃないが、その代わり金にゃなるぜ。どうだ、一晩で百円。話に乗らんかね」  と、おいでなすった。それでも初めからインチキと断わるところがまだしも御|愛嬌《あいきよう》というもの。あたしはなにしろ咽喉《のど》から手が出そうなありさまだったから、 「ええ、それはあたしだってこのとおりの状態《ざま》だから、あまり贅沢《ぜいたく》は言わないけど、いったい、その仕事ってどんなことなの」 「それがさ。ほかへ漏れるとちっと困ることなんだが」 「大丈夫よ、あたしだれにもしゃべりゃしないわよ。言ってみてよ」 「よし、それじゃ話すが、おめえ近ごろヴィーナス・レコード会社から売り出してる『みやこ音頭』というレコード、知ってるだろ」 「ええ、知ってるわ。あのチョイナチョイナ、スッチョイナってやつでしょう」 「ああ、それそれ、そのスッチョイナを大いに売り出そうてんで、こういう計画があるんだがね」  と、そこで栄公が膝《ひざ》を乗り出してあたしに打ち明けたのは、およそ次ぎのような話。  いったい、このヴィーナス・レコード会社というのは、どうせ諸井栄三を抱き込もうというくらいの会社だから、のっけからインチキなのはわかりきってるが、この会社から近ごろ売り出した『みやこ音頭』というレコードが案外成績がいい。そこでこいつを一つ大々的に売り出してみようと、考えついたのが、みやこ音頭踊り競技会というやつ。『みやこ音頭』というレコードには、花柳《はなやぎ》なにがしとかいう、踊りのお師匠さんが振り付けした、みやこ踊りの踊り方がカードになって付けてあるのだが、ひと晩、その踊りの競技会を催して、一等になった人には、金一千円|也《なり》の賞金を進呈しようというわけ。 「ただし、その競技会へ出席するには、入場券が必要なんだが、その入場券は『みやこ音頭』のレコードに付けてあるんだ。つまりね、そのレコードを買わなけりゃ、競技へ出られないんだが、その代わりあわよくいけば、一円のレコードで、一千円の賞金がもらえる。——とこういう寸法になってるんだが、どうだこの宣伝法は」 「まあ、すてきね。なにしろ欲の世の中だから、その宣伝法きっと当たってよ」  あたしがおだててやると、栄公のやつ、相好《そうごう》を崩して喜びながら、 「そうだろ、こいつはぼくが考えたんだからね」 「しかし、それで千円も賞金を出して合うの。いったい、レコードってどのくらい儲《もう》かるものかしれないけれど」 「さあ、そこなんだよ。これがね、最初から五十万も六十万も売れると決まってりゃ、千円ぐらいなんでもありゃしないのだが、万一売れなかった日にゃ、千円丸損てことになる。ところが、あのヴィーナス・レコード会社ときたら、それこそ見かけ倒しのボロッ会社でね、千円はおろか五百円も出すのは困るってんだ」 「それじゃ、栄ちゃん、せっかくの名案もお話にならないじゃないの」 「さあ、そこだて、百合っぺ」  栄公のやつ、急に声を落とすと、 「おめえに、ひと働きしてもらいてえというのは、そこんところだ。つまりだね、おめえにひとつその競技会へ出てもらって、一等の賞金を取ってもらいてえんだよ。なあに、わけゃありゃしねえ。審査員てえのがみんな共謀《ぐる》なんだから、なんでもかんでも、おめえを一等にしちまあな。だから、おめえはただ、出てくれさえすればいいのさ。ただし、千円の賞金はそっくりおめえにくれてやるわけにゃいかねえよ。九百円だけは、あとでこっそり会社のほうへ返してもらわねばならぬが、百円だけはくれてやる。どうだ、ぼろい話じゃねえか。ひとつやってみる気はないか」 「というと、つまり一種のさくら[#「さくら」に傍点]ね」 「まあ、そうだね」 「あたしというさくら[#「さくら」に傍点]を使って、民衆を欺瞞《ぎまん》するのね」 「まあ、早く言やあそうさ。おめえいやかい。これだけの秘密を打ち明けさせといて、今さら、いやと言やあ——」  ただじゃおかねえぞ、と栄公のやつ、突然物すごい眼でジロリとあたしをにらんだものである。     二  というようなわけで、あたしはとうとう、栄公の仕事の片棒かつぐことになった。  あたしだって、そんな悪いことしたくはなかったけれど、譬《たと》えにもいうとおり、背に腹はかえられない。それに今さらいやだと言えば、どんなひどい目に遭《あ》わされるかわからないんですもの、結局ウンと承知してしまったわけ。  だけど、いったん引き受けたものの、あたしだんだん心細くなってきたの。というのが、それから間もなく、このみやこ音頭踊り競技会という計画が新聞に現われると、これが俄然《がぜん》すばらしいヒット。東京じゅうどこへ行っても、寄ると触《さわ》るとこの噂《うわさ》で持ち切りなんですもの。  なにしろ欲と二人づれ。レコードは飛ぶような売れ行きで、われこそ賞金一千円をせしめんものとばかりに、欲の深い連中が、チョイナ、チョイナ、スッチョイナといたるところで踊りのお稽古《けいこ》を始めるという騒ぎ。  これだけの連中を欺かねばならんのかと思うと、あたし大いに良心の呵責《かしやく》を感じたけれど、今さら約束を反古《ほご》にするわけにいかない。第一あたしちゃんと手付けの金をとって、しかもそのお金を使っちまったんですもの。  やがて、競技会は八月十五日の夜八時、盆踊りをかねて、日比谷公園で行なわれることになった。  さあ、たいへん。  あたし、あの晩の騒ぎをとても忘れることはできないわ。なにしろ、あの広い日比谷公園が人で埋まってしまったんだから、まるで震災の時の被服廠《ひふくしよう》跡みたいな大混雑、だれかがこの真ん中へ焼夷弾《しよういだん》を落としたら、さぞ愉快だろうなんて言ってたけれど、全くそんな気持ちよ。人間もああたくさん集まると、まるで虫みたいな気持ちがするものね。おまけにどの顔を見ても、欲の皮のつっ張った連中ばかり、あたし浅ましいやら、果敢《はか》ないやら、しまいには泣き出したくなっちゃった。  そういう連中が、ただもう、ワーッ、ワーッと、わけのわからぬ喚声をあげてひしめき合っている。場内、いたるところで、騒々しい電気蓄音機が、    チョイナ      チョイナ     スッチョイナ  とやっている。  空には花火、地には団子《だんご》つなぎの紅提燈《べにちようちん》、いやもう、気違い病院が焼き打ちにあったような騒ぎなのよ。  そのうちにいよいよ、定刻の八時になって、競技会が始まった。  ここで、この競技方法というのをお話ししておこう。なにしろ人数があまり多いものだから、最初全部を、イからヌまでの十組に分けて予選を行なう。そして予選をパスしたのが、最後にいよいよ決勝を争うということになったのだが、ここで審査の公平を期するために、みんな一様に頬冠《ほおかむ》りをして、顔を隠すことになったの。というのは、どうしても美人は美人ならざる者より、審査員の注目を惹《ひ》きやすいという不公平があるので、それを除くために、みんな顔を隠してくださいということになったの。  なにしろ計画がインチキなんだから、できるだけうまく、世間をごまかさなければいけないでしょう、だから、いろいろと苦心がいるのよ。  あたしは最初、ハ組に入ってたが、むろん予選は異議なくパスした。顔は隠していても、ぱっと眼につく撫子《なでしこ》の浴衣《ゆかた》が目印《めじるし》になっていて、それを目当てに審査員はあたしを選ぶことになってるの。  あたしほっとして、競技場の周囲《まわり》にある模擬店へ入っていった。なにしろあまり咽喉《のど》が渇いてたまらないものだから、冷たいものでも飲もうと思ったのよ。 「あの、すみませんが、あたしにソーダ水一つくださいな」  模擬店の小母《おば》さんに、あたしがそう声をかけ終わるか終わらないうちに、突然、すばらしい胴間《どうま》声で、 「やあ、おめでとう。みごと予選をパスしましたね。おめでとう、おめでとう」  そう声をかけたものがある。  あたし、初めはだれかほかの人に話しているのだろうと思って、知らぬ顔をしていると、だれかがいきなりあたしの肩をたたいて、 「すばらしいですな。ぼく、さっきからあなたの踊りばかり見てましたよ。実にすばらしい。すてきだ。あなた一等疑いなしですよ」  と、無遠慮に言うのよ。  あたしドキリとして振り返ってみると、ひと目見て、田舎《いなか》の青年団の団員とでも言いたそうな兄《あん》ちゃんが、きっといくらか酒に酔ってるんでしょう、まるい健康そうな頬《ほ》っぺたをてらてらと光らせていかにも人のいい微笑《わら》いを浮かべているの。そのとたん、あたしプーンと懐かしい肥料《こやし》のにおいを嗅《か》いだわ。  あたし思わずドギマギとして、 「あら、あの——失礼ですが、あなたどなたでしたっけ。お見それしまして」  と言うと、 「ぼくですか。ぼくですか、ぼくは遠藤耕作ですよ。長野県何々郡何々村の青年団の団長ですよ。ほら御存じでしょう、長野県何々郡何々村。ぼくはその何々郡何々村の青年団の団長の遠藤耕作。いやどうも」  何がいやどうもなのかさっぱりわからない。だけどこれだから田舎の人って可愛いんだわ。長野県何々郡何々村だって。ほほほほほ、そういえば日本全国どこへ行っても通用すると思ってるのよ。 「ねえ、お嬢さん、いや奥さん」  言いながら、青年団長はあたしのテーブルの向こうでふらふらしてる。 「あらいやですわ。あたしまだ娘よ」 「おっと、失礼。ところでお嬢さん、ぼく、ここへ掛けてもいいですか」 「ええ、どうぞ御随意に」 「ありがとう、ありがとう。ぼく実にうれしいです。あなたのようなきれいなかたと、お話ができるなんて、東京は実にすばらしいですな」 「まあ、お世辞がいいわね」 「いや、全くのところ。ぼく、驚きましたよ。ぼくの故郷《くに》にだって、あなたみたいにきれいな女は一人もいない。いや、あなたみたいに踊りの上手な娘《こ》、一人だっていやしませんよ」  可哀そうに、これでもあたし職業的ステージ・ダンサーよ。田舎の娘さんといっしょにされちゃたまりゃしないわ。  でも、あたし別に腹は立たなかった。飾り気のない青年の言葉に好意を感じた。それであたしちょっと訊《き》いてみたの。 「あなたのお故郷《くに》でも、やっぱりこんな踊り、踊りますの」 「踊りますとも!」  青年はにわかに得意になって、 「この踊り、ぼくの村で踊る盆踊りにそっくりですよ。ちょっともちがっちゃいない。これはきっとぼくの村から流行《はや》ってきたものにちがいない」  ほほほほほ、とんだところで花柳師匠、馬脚を現わしたもんだわ。振り付けの花柳先生、きっと長野県何々郡何々村の盆踊りを、そっくりそのまま焼き直したものにちがいない。 「まあ、それじゃあなたも競技に参加されるといいわ」 「むろんです。ぼくも踊りますよ。ぼくはチ組ですから、この次ぎです。一つ、ぼくの踊り方をよく見ていてください」  青年団長は昂然《こうぜん》として言うの。 「まあ、すてきね。あたし、それじゃここからしみじみ拝見させていただきますわ。ところであなた、わざわざ、この踊りに参加するために、東京へいらしたの」 「いや、そうじゃないです。実はね、女房を連れて東京見物に来たんですよ。つまり新婚旅行というわけですな。へへへ」  青年団長はいくらかきまり悪げに首をすくめる。 「まあ、そうなの。それじゃあなた、花嫁さんを宿へおっぽりだしていらっしたのね。お可哀そうに、悪いかたね」  あたしがちょっとにらんでやると、長野県何々郡何々村の青年団長は、あわてて手を振りながら、 「いや、そ、そんなことないです。女房のやつもあそこへ来ていますよ。いっしょに来たんです」  そういわれて振り返ってみると、なるほど、二つ三つ、向こうのテーブルに、花嫁さん、一人しょんぼりと悲しげに座ってる。さほど美人とは思えないけれど、いかにも血色のいい肌《はだ》の色が都会生活に疲れたあたしの眼には、うらやましいほど新鮮だった。 「あら、お人が悪いのね。じゃお二人で踊って、大いにあたしたちに見せつけようというわけなのね」  そう言ってやると花婿さん、うれしがるかと思いのほか、首筋まで真っ赤になって、 「そ、そんなことないです。なあに、あんなやつ、だれがいっしょに踊るもんですか」 「まあ、ひどいことをおっしゃる。お可哀そうに、きれいなかたじゃありませんか」 「何がきれいなもんですか。もっともあれでも故郷《くに》を出る時には、もっとましな女かと思ってたんですよ。ところが東京へ来てみると、どうして、どうして、東京の女の人って、実にみんなきれいですな」  花婿さんはそう言うと、必死の眼差《まなざ》しでじっとあたしの顔を見るの。ここでもしあたしが、悪い女で、甘い言葉の一つもかけてやれば、この青年団長はころりとまいってしまうのに決まっている。あたしは急に恐ろしくなった。この青年は、今やすっかり都会の毒気に当てられてしまったのだ。平和な農村から、ネオンとジャズの都会へとび出してきた若者の、だれしもが陥る混迷状態へ、この田舎の花婿さんも落ちてしまったのだ。無理もないわ。あたしにだって経験のないことじゃなし。——これを思うと、新婚旅行に東京へなど出てくるものじゃない。 「あなたチ組とおっしゃったわね。そろそろ用意をなさらなくちゃいけませんわ」  あたしは急にこの花婿が憎らしくなってきたので、できるだけ冷淡にそう言ってやった。     三  花婿さんが意気揚々と競技場のほうへ出ていったあとで、あたしはそっと花嫁さんのほうを振り返ってみた。花嫁さん、わざと知らぬ顔をして向こうのほうを向いてるが、あたしにはちゃんとわかってる。花嫁さん、さっきから、心配そうにあたしたちのほうを見てたんだけど、急にあたしが振り返ったもんだから、わざと澄ましてるのよ。でも、内心の動揺は隠すべくもないの。テーブルの下で、しきりにハンケチを開いたり、もみくちゃにしてるんですもの、あたし、すっかり同情しちゃった。  そのうちに、二人の視線がふとカチ合った。この機逸せずとばかり、あたし、できるだけ優しい笑顔をすると、 「こっちへいらっしゃいません」  そう言ってやると、花嫁さん、林檎《りんご》みたいな頬《ほ》っぺたを、いよいよ真っ赤にして、ドギマギしてるその可愛いさ! あたし断然、憤慨しちゃったわ。こんな可愛いお嫁さんを置いてけぼりにするなんて、なんて憎らしいお婿さんでしょう。 「ねえ、こっちへいらっしゃいよ」 「ええ」  花嫁さん、相変わらず頼りなげな笑いを浮かべている。 「いいわ、あなたがいらっしゃらないなら、あたしのほうから行ってよ」  あたし、そう言うと、さっさと向こうのテーブルのほうへ行ってやった。花嫁さん、それを見るとびっくりして、穴があれば入りたいって格好をするのよ。あたし、それを見ると、いよいよ、この人が好きで好きでたまらなくなっちゃったの。だって、あたしにだって、昔はこんな時代があったんですもの。 「あなた、どうしてお踊りにならないの?」 「ええ」  花嫁さん、うつむいたまま淋《さび》しげに微笑《わら》ってる。テーブルの上には、すっかり気の抜けたソーダ水が、まだ口もつけずにとろんと澱《よど》んでいるの。 「ねえ、踊りなさいよ。旦那《だんな》さま、向こうで踊ってらっしゃるじゃないの」  向こうを見ると青年団長、しきりに手振り、脚振り、チョイナ、チョイナ、スッチョイナと踊ってる。なるほど、自慢するだけあって、相当なもんだけれど、どんなに上手に踊ったって始まらない。一等賞はちゃんとあたしのものと決まってるんだもの。 「だめですのよ、あたしなんか」  花嫁さんが、溜息《ためいき》を吐くように言う。 「あら、どうして? この踊り、あなたのお故郷《くに》の盆踊りと同じだというじゃないの。あなた、盆踊りの時、踊るんでしょう」 「ええ」  花嫁さん、ちょっと頬をそめて溜息《ためいき》をついた。わかったわ。きっとこの人、御主人と結婚する前、鎮守の森かなんかで、いっしょに踊った思い出を持ってるのよ。 「なら、お踊りになればいいじゃありませんの」 「だって、だって、あの人が踊っちゃいけないって言うんですもの」 「あら、どうして?」 「どうしてって、——あの人、あたしみたいな者と、夫婦だと思われるのが恥ずかしいんですわ。皆さん、あんまりおきれいだもんですから」  言ったかと思ったら、花嫁さん、ポトリとテーブルの上に涙を落とした。さっきから、よっぽど心細くなってたとみえるの。 「まあ、そんなこと。——あのかた、そんな不実なかた? ちっともそんなふうに見えないじゃありませんの」 「ええ、故郷《くに》にいる時はそうでもなかったのよ。とても親切だったわ。だけど、東京へ出て来たら、すっかり変わってしまいましたの」 「変わったって、どう変わったの」 「あの人、東京がおもしろくてたまらないのよ。もう有頂天《うちようてん》になってしまっているんですわ。そして、そして、あたしに一人で、田舎へ帰ってしまえなんて言いますの」 「まあ、ひどい。あなた一人帰して、御自分はどうするつもりなんでしょう」 「東京の人間になってしまうんですって。あんな土くさい田舎や、土くさいあたしがすっかりいやになってしまったんですって」  テーブルの上にまたポトリと涙が落ちた。 「まあ、ひどい、憎らしいわね、そんなことおっしゃったの」 「ええ、だからあたし、初めから東京なんかへ来るのいやだったんですわ。こうなることちゃんとわかってたんですもの。江崎のお千代さんだってそうですもの」 「なあに? その江崎のお千代さんというのは?」 「あら、あなた、江崎のお千代さん、御存じありませんの?」 「知りませんわ、そういうかた」 「まあ、ごめんなさい、あたし、あなたがうちの人となれなれしくお話ししていらしたもんだから、お故郷《くに》のかただとばかり思って」 「そんなこと、どうでもいいのよ。それより、その江崎のお千代さんというかた、どうかなすったの」  あたしが急に膝《ひざ》を乗り出すと、花嫁さん、びっくりしたように、眼をパチクリさせていたが、急に雄弁になると、 「あたしもそのかたに、お目にかかったことはありませんのよ。そのかたとは村がちがうもんですから。でもそのかた、隣り村の江崎|俊一《しゆんいち》さんのところへお嫁にいらっしたの。とてもきれいなかただったという話ですわ。ところが五年ほど前、東京から、あたしたちのほうへ活動写真を撮《と》りにきたことがありますの。とてもきれいな女優さんや、男優さんが大勢いらして、ひと月ほど、それはそれはにぎやかでしたわ。その時、ある場面で女優さんの数が足りなかったもんだから、俊一さんの奥さんのお千代さんが頼まれて、ほんのちっと顔を出したんですの。その時分、村じゅう大騒ぎでしたわ。お千代さんが活動写真になったって、——ところがその一行が東京へ引き揚げてから間もなく、突然お千代さん、家出をしてしまったんですわ」 「まあ!」 「あとで聞くと、その一行が村にいる間、お千代さんはつききりで、それに活動に出してもらったり、あなたは天分があるなんて言われたものだから、急に田舎にいるのがいやになって、女優さんになるつもりで東京へ行ってしまったんですって。御主人を置き去りにして」 「よくある話ね。そして、そのお千代さんてかた、その後どうなすって」 「それが、まるきりわかりませんのよ。その当座、今にお千代さんはスターになるだろうと、みんな噂《うわさ》をしてましたけれど、五年たってもなんの音|沙汰《さた》もありませんの」 「結局、だめだったのね。それでその置き去りにされた御主人どうなすって。さぞ、今ごろは新しいお嫁さんをもらって、お千代さんのことなんか、すっかり忘れちまってるでしょう」 「俊一さん? まあ、そんなことが。——」  花嫁さん、急に躍起となって、 「あのかたそんな薄情なかたじゃありませんわ。今でも江崎さんの家は、お千代さんがいらした時のままになっていて、いつお千代さんが帰ってきてもいいようになってますわ」 「まあ! それじゃ、その人まだひとりでいるのね」 「ええ、ええ、そうですわ。そしていつお目にかかっても、お千代はきっとそのうちに帰ってきますよと言って、そして、汽車が着くたびに駅まで見にいらっしゃるの」 「あら、いやだ、ずいぶん古風ね。あたしなら、そんな不都合な女、断然忘れちまうわ」 「まあ、そんなひどいこと! あたしだって、あたしだって。——」 「あなたならどうなさいますの」 「あたし、もしあの人に捨てられたら、やっぱり江崎の俊一さんみたいに、汽車の着くたびに駅まで見にいきますわ」  言ったかと思うと、花嫁さん、急にわっと泣き出したのよ。     四  その泣き声を聞いた刹那《せつな》、さっとあたしの頭に妙案が浮かんだ。あたし、どうしたってこの可憐《いじ》らしい花嫁を見殺しにできやしないわ。このまま放っておけば、御|亭主《ていしゆ》は東京の魔力に取り憑《つ》かれてしまって、この可愛い花嫁さんは、江崎の俊一さんとやらと同じ羽目になってしまうことはわかりきってるんですもの。 「あなた、いいことがあるわ。こちらへいらっしゃい。いいからあたしの言うとおりにするのよ」  そう言うと、あたしはいきなり花嫁さんの手をひっぱって、ぐいぐいと暗い木陰へ連れていった。 「よくお聞きなさいよ。あなたの御主人は今、江崎のお千代さんの二の舞いをしようとしてるのよ。これを救うのはあなたの心一つよ、わかって?」 「ええ? ええ」  花嫁さん、びっくりして眼をパチクリさせている。 「それにはね、あなたもやっぱり踊らなければいけませんよ。さあ、ここにあたしの予選パスの証明書がありますからね、あなたこれを持って、決勝の競技会へ参加するのよ」 「だって、それじゃあなたは?」 「いいのよ、あたしのことなんか心配しなくてもいいのよ。だけど、あなたその服装《みなり》じゃいけないわ。あ、ちょうどいい、あたしのこの撫子《なでしこ》の浴衣《ゆかた》、これをあなたに貸してあげるわ。ちょうど、体つきもよく似てるし、それからこの頬かむりで顔を隠して踊るのよ、わかって」 「でも、でも」  花嫁さんがなおも躊躇《ちゆうちよ》しているのを、あたしは叱《しか》りつけるように、 「だめよ、そんなことじゃ。大事な大事なお婿さんに逃げられるか逃げられないかの境目《さかいめ》じゃないの、しっかりなさいよ」 「ええ、あたし、どんなことでもするわ」  というようなわけで、暗闇《くらやみ》の中で衣装を取りかえた花嫁さん、それから間もなく、あたしの代わりに決勝に参加したのだけれど、その結果はおわかりでしょう。  作戦図に当たって、花嫁さん、みごと一等、一千円の賞金を射落としたのよ。だけど、断わっとくけど花嫁さんには断然その価値があったのよ。指す手引く手の巧まないうまさ、あどけなさ、だれの眼にも際立《きわだ》って上手に見えてたわ。だから、彼女が一等と決まった時にはだれ一人不服を言う者はなかった。  しかし、その時の青年団長の表情《かおいろ》というのを、みなさんにお目にかけたかったわね。  いよいよ、撫子の浴衣を着た娘さんが一等と決定して、さて、頬かむりを取ったその顔を見た時予選ですでに篩《ふる》い落とされて、ガッカリしてテーブルについていた花婿さん、急に天地がひっくり返るようにびっくりしちゃった。 「おめでとう、長野県何々郡何々村の遠藤耕作さん、すてきね。あなたの奥さん、断然一等よ、すばらしいわ。すてきだわ」  そう言ってやると、花婿さん、狐憑《きつねつ》きが狐の落ちた時みたいに、ブルブルと身震いをして、 「わ、わ、わ! わしの女房が、わしの女房が一等だって。そんな、そんな」 「しっかりなさいよ。どうなすったの。あれ、あなたの奥さんにちがいないじゃありませんか。ほらほら、うれしそうな顔をして、今、一千円の賞金をもらってるわ。そら、新聞記者に取りまかれてさ、断然、今夜の人気者よ」 「ああ、ああ! わしの女房——わしの女房はいったいどうなるんじゃ」  花婿さん、心細い声を出した。 「どうもこうもありゃしないわ。明日の新聞を見てごらんなさい。奥さんの姿が大々的に載ってるわよ。そして、奥さん引っ張り凧《だこ》になってよ、だって、この人気を御覧なさい。ほうら、みんなすばらしい歓声をあげてるじゃないの」  あたしの言葉は嘘《うそ》じゃなかった。可憐《かれん》な花嫁さんが、方々のレコード商店から送られた数々の副賞を受けるたびに、数万の観衆がワーッ、ワーッ、とすさまじい拍手を送るの。 「ねえ、この人気だからただじゃおかないわよ。今にきっと映画会社から、あなたの奥さんを買いにきてよ。そしたら奥さん、江崎のお千代さんみたいになってしまうわ」 「え? 江崎のお千代さん? あなたどうして、そんなことを知ってるんです?」 「今、奥さんから聞いたの。奥さん、とてもお千代さんをうらやましがってたわ」 「チ、畜生! そんなことをされてたまるもんか。ぼくは断然、明日——いや、今夜これから、彼女《あれ》を連れて故郷《くに》へ帰ります」 「さあ、奥さん、承知するかしら」 「承知するもせんも、畜生っ! 彼女《あれ》はぼくの女房です。可愛い、可愛い女房です」  言ったかと思うと、花婿さん、猛然と群衆をつき切って、新聞記者に包囲されてきょときょとしている花嫁さんのほうへ突進していった。  さあ、これでこのほうは方《かた》がついた。あの花婿さん、これで生涯《しようがい》、お嫁さんの前に頭が上がらないのに決まってるわ。なにしろ、東京で、一等賞をとった花嫁さんなんですもの。  しかし、おさまらないのはあたしと諸井栄三の間。その翌日、あたしがアパートで荷造りをしてると、そこへ栄公のやつ、風のようにとんできた。 「おい、百合《ゆり》っぺ、貴様ゆうべのあれ、いったい、どうしたというんだ。あの田舎娘はいったい何者だい」  栄公すさまじい権幕なの。 「だれでもいいじゃないの。ああして審査員のお鑑識《めがね》にかなって一等になったんだから」 「畜生っ、キ、貴様、審査員が貴様の顔を知らないのをいいことにして、あの娘と共謀《ぐる》になって一千円詐取するつもりだな」 「ちょいと栄ちゃん、あなた気をつけて物を言ってよ。詐欺ってのはあなたのほうのことでしょ。レコードが売れてないならともかく、こんなに大した売れ行きだもの。千円ぐらい捨てたっていいじゃないの。それにあの娘さん、ほんとに踊りが上手だったわよ。だれが眼にも断然一等よ。あたしが重役さんに代わって、公平にやってあげたんだから、お礼を言ってもらいたいくらいよ」 「畜生! のめのめと言ったな。よし、訴えて——」 「訴える? ほほほほほ、御冗談でしょ。訴えるなら訴えてごらん、あんた会社のインチキを暴露《ばくろ》してもいいの」 「ウウ、ウーム」  栄公のやつ、眼を白黒させて赤くなったり青くなったりしてる、態《ざま》ア見ろだわ。 「さあ、邪魔になるからそこを退《ど》いてよ」 「貴様、荷物をまとめて逃げ出すつもりだな」  あたしはその時、できるだけの侮蔑《ぶべつ》を目に浮かべて、決然としてこう言ってやったの。 「逃げやしないわよ。あたし、つくづく東京がいやになったから故郷《くに》へ帰るの。あたしの故郷? 長野県何々郡何々村よ。そこにははばかりながらあたしの夫が、あたしの帰るのを待っててくれてるの。だから、何か文句があるなら、そこへ手紙をちょうだい。あたしの名前? あたしの名前は江崎千代子というのよ。わかって?」 [#改ページ] [#見出し]  ある戦死     一  目黒から有楽町までの、混みあった電車の中で新聞を読んでいた鳥羽《とば》は、ふいにおやと頓狂《とんきよう》な声をあげて、周囲《まわり》の人々を驚かせた。  近ごろいちばん気になる事変記事、その事変記事の最後に付け加えられた、○○方面における戦死者氏名というのを何気なく読んでいくうちに、宗像信也《むなかたしんや》(長崎県)という名を発見したからである。  宗像信也。ひょっとするとあの男ではないかしら。——鳥羽は新聞を膝《ひざ》のあいだにはさんだまま、ぼんやりと考える。——そうだ、お延《のぶ》さんはたしか長崎の生まれだったから、その遠縁に当たるという、あの男もやっぱり長崎県人だったにちがいない。  鳥羽はいつか、お延の見せてくれたアルバムの中にあったこの男の軍服姿を思い出した。その時分、幹部候補生とやらだったから、今はもう相当の地位に進んでいるのだろう。煩わしい世間の中にあがき回っている自分たちとちがって、生《き》一本の目的のために生命を捧《ささ》げていただけあって、微塵《みじん》も思案のかげのない、その男の自信に満ちた、たくましい表情をうらやましいと思ってながめたのを覚えている。  もしここに出ている宗像信也が、ほんとうにあの男だとしたら——万が一にも間違いはないと思われるが——お延さんはいったいどうしているだろう。そこまで考えてきた鳥羽の頭脳《あたま》には、思考の当然の順序として、内海龍介《うつみりゆうすけ》のことが浮かんできた。  すると、彼の胸は、にわかにズキズキと痛み出してきたのである。内海もこの記事を読んだろうか。もし読んだとしたら、内海にとってこれはかなり大きな衝撃《シヨツク》だったにちがいない。表面、あの当時のことは忘れきったような顔付きをしているものの、他に精神活動の消費対象を持たないああいう病人のことだ。ひと知れず反芻《はんすう》動物のように、あの苦い経験を繰り返し繰り返し、頭脳の中にもてあそんでいて、それがいまだに埋《うず》め火《び》のようにブスブスと燻《くす》ぼっては、病人を苦しめていることを鳥羽はよく知っていた。  現にいつか見舞いにいった時も、有名なその高原の病院の院長は、ひそかに彼を呼んでこう言ったものである。 「何かしら気になることがあって、それが大きな重石《おもし》になって精神的な安静を妨げているんですな。つまりそれがはかばかしく回復しない第一の原因なんです」  暗《あん》にたった一人の友人である鳥羽に向かって、その重石を取り除いてやるよう、努力したらどうかという口吻《くちぶり》だったが、しかし、それは鳥羽の力でも、どうすることもできない問題だった。  内海はこの記事を読んだろうか。鳥羽はもう一度同じことを考えてみる。  たといこの記事を読んだとしても、まさか小さな活字でギッシリと埋められている、この名前を発見するようなことはあるまい、鳥羽はそうあるように祈ったが、しかしそれは可能性が薄そうに思われる。  なんのすることもなく、時間の推移ののろまさを持てあましているああいう病人のことだ。いつか内海が、新聞の発行所から、編集責任者の名前まで読んでいて自分を笑わせたことを鳥羽は苦しく思い出した。  もし内海がこの記事を読んだら。——鳥羽はなんともいえぬ悲痛なものを感じる。そうでなくても、今年の桁《けた》はずれの暑さは、すっかり内海の体内から、わずかばかり残っていた精力をもぎ取ってしまっているのだ、たとい万一のことがあるにしても、あの苦い思い出の中に死なせたくない。  電車が有楽町に着くまで、鳥羽の頭脳には疲れはてた内海の顔と、あんな大胆な振る舞いをしようとは、夢にも思わなかったお延のあどけない表情と、それからたくましい宗像の軍服姿が走馬燈のように躍り狂って、それが鳥羽を苦しめるのだった。     二  五時過ぎ同じ電車を逆に、目黒にある家に帰ってくると、出迎えた妻の澄子が、鳥羽の顔を見ると、いきなりこう言った。 「あなた、内海さんから電報よ」 「電報?」  と、聞いて鳥羽はすぐギクリとした顔色になった。 「ええ、さっき来たばかりなの。会社へ電話をかけたんですけれど、お退《ひ》けになった後だったものですから」  言いながら、澄子は帯のあいだにはさんだ電報を見せた。  「ハナシアリ スグ キテクレ」ウツミ  読んでいくうちに鳥羽の表情が変わっていくのを、澄子は一生懸命な眼つきでながめながら、 「あなたいらっしゃる」 「うん、行かねばなるまいね」 「そうなさるといいわ。会社のほうへはあしたあたしから電話をかけておきますから」 「ああ、そうしてくれ。ひょっとすると二、三日泊まってくるようなことになるかもしれないよ」 「いいわ。久美《くみ》ちゃんにでも来てもらうから、いつもの汽車でいらっしゃるでしょう。あたしちゃんとお支度をしておいたのよ」 「そう、それは手回しがよかったね」  内海の言うことなら、どんなわがままでもきいてやらねば気がすまぬ二人だった。  鳥羽と内海は中学時代の同窓だった。中学を出てからはおのおのの志す方向がちがっていたので離れ離れになるべきはずだったが、どういうものか二人はいつもしっかりと結びついていた。内海はお金持ちの坊ちゃんで、しかも両親に早く死別したので、若い時分から自分の自由になる金をかなりたくさん持っていた。内海はその中から月々かなり多額の金を割《さ》いて、苦しい勉学をつづけている鳥羽を助けるのを少しも惜しまなかった。  そればかりか、せっかくそうした友人の好意で学校を出た鳥羽が、急にぐれ出して、内海の好意をめちゃめちゃに踏みにじるような行為に出た時も、内海はだれにも漏らさずに尻拭《しりぬぐ》いをしてくれるほどの寛大さを持っていた。  以前、映画女優をしていた澄子とすったもんだの問題を起こしたあげく、それでもめでたくいっしょになることのできたのも内海の尽力と金のおかげだった。  例の問題が内海に起こったのもちょうどそのころだった。お延に逃げられて、一人になった内海はしばらく鳥羽夫婦のもとに身を寄せていたことがある。その時分からすでに今の病気を病んでいた内海は、自分の療養に都合のいい家を建てるのだといって、自分で家を設計してそこに鳥羽夫婦といっしょに移り住んでいた。その家は今鳥羽の名義になっていて、鳥羽が月給に不似合いな立派な家を持っていて同僚からうらやましがられるのも、こういういきさつからだったのだ。 「内海さんお悪いのでしょうか」 「さあ」 「今年はほんとうに暑かったんですものね。話ってどんなことかしら」  鳥羽は今朝新聞で見たことを話そうかと思ったが、よけいな心配をさせるでもないと思ったから黙っていた。 「お気の毒なかたね。あの病気でよくなったかたはいくらでもあるのに、やっぱりあの事件がいけなかったのね」  夫婦のあいだに小さいこじれがある時でも、事内海に関するとたちまち一体になる澄子を鳥羽はこの時ほどうれしく、頼《たの》もしく感じたことはなかった。 「なーに、なんでもありゃしないのさ、あいつ例のわがままで話し相手が欲しくなったのだよ」  わざと元気よくそういって、翌日の早朝、信州の高原にあるその療養所へ着くように、遅い汽車に乗った鳥羽だった。     三  慣れているので、相手の睡眠を邪魔しないように、汽車を降りてからしばらくそのへんを散歩したあげく、適当なころ合いを見計らって病院を訪れると、内海はちょうどバルコニーに籐椅子《とういす》を持ち出して、半裸体で空気浴をしているところだった。 「やあ」  鳥羽の顔を見ると、内海は心持ち首をねじまげただけで、無感動な声で言った。思ったより元気らしいのが、この場合鳥羽には何よりもうれしかった。 「すっかり御無沙汰《ごぶさた》をした。久しぶりに来てみるとやっぱりここはいいね。この前来た時よりだいぶ顔色がいいじゃないか。やっぱり涼しくなったせいかな」  鳥羽は無造作に上衣を脱いで、椅子の上に投げ出しながら、ふと気がついて部屋の中を見回した。新聞はそばのテーブルの上に、堆高《うずたか》く積んであったが、読んだふうもなく、みんなキチンと折り目を持ったまま重ねてあった。 「そうそう、今朝はまだ新聞を読まないのだが」  鳥羽はいちばん上にあったのを取り上げながら、 「どうだ、近ごろ新聞を読むかね」  と言ってから、少しまずかったかなと思った。しかし、内海は気がついたふうもなく、 「ううん、ほとんど読まない、だいぶ、騒がしいようだね」 「東京は大変だよ、非常時風景というやつでね。おれもこういう静かなところで、しばらく休息がしたいよ」  そんなことを言いながらも、相手が新聞を見たのでないとすれば、話というのはなんだろうと、また別な不安が湧《わ》き起こってくる。 「おいおい、そんなに長く空気浴をしていいのかい」 「うん、もうよすことにしよう。きみすまないが、そのシャツをとってくれたまえ」 「よしきた」  シャツに腕を通す相手の浅黒い、艶《つや》のない上半身がいかにも脾弱《ひよわ》そうで、さっき思ったより元気がいいなと思ったのは、やっぱり思いちがいだったことに気がついた。 「失敬するよ」  内海はいかにも大儀そうに、白いシーツを敷いたべッドの上に身を横たえると、ごろごろと咽喉《のど》を鳴らして含嗽《うがい》をしていたが、それがすむと、 「きみ、十時ごろにここを出る上り列車があったね」 「どうしたんだい、ぼくは二、三日泊まってくつもりで来たんだが」  内海はそれに答えないで、仰臥《ぎようが》したまま細い腕を胸の上に組み合わせて、しばらく白い天井をながめていたが、 「きみ、その新聞の上に映画雑誌が載っかっているだろう。それを取ってくれたまえ」 「うん、これか」 「ああ、その口絵に、緒方早苗《おがたさなえ》の写真が載っているからね、そこを開いてみてくれたまえ」  鳥羽は見覚えのある緒方早苗の横顔を、膝《ひざ》の上でひろげると、いくらか怪しむように内海の顔を偸《ぬす》み見た。緒方早苗というのは近ごろ売り出してきた、新進スターなのだ。  内海はしばらくまた無言だったが、やがて急に別の話をしだした。 「きみ、澄《すみ》さんは元気かね」 「ありがとう、そうそう、きみによろしくって言ってたぜ」 「うん」かすかにうなずきながら、「お澄さんはたしか緒方と心安かったね」 「ああ、心安いかどうか知らないが、同じスタジオに働いていたんだから、知っていることは知っているはずだ。しかし、緒方がどうかしたのかね」 「うん、少しお澄さんに頼みたいことがあるんだ。きみ、その緒方の写真をよく見てくれたまえ。左手に大きな指輪をはめているだろう」 「ああ」 「その指輪をどこから手に入れたか、お澄さんに聞いてもらいたいんだよ」 「この指輪を——」  鳥羽は驚いたように写真の上に眼を落としたが、 「そうなんだ。そうすればひょっとするとお延《のぶ》の行方がわかるかもしれないと思うんだ。なぜってその指輪は、いつかぼくがお延のためにこしらえてやった代物《しろもの》だからね」  そう言うと、内海の目じりから見る見るうちに、玉のような涙があふれ出してきたのである。     四  指輪の出所《でどころ》はすぐわかった。  緒方早苗は装身具の出所など、隠したがるような女ではなかったので、早苗のもとから帰ってくると澄子はすぐ、 「わかったわ。麻布のS堂といって、そういった中古品ばかり扱っている店があるでしょう、あそこで買ったんですって。さあ、この後はあなたのお役目よ」  と、鳥羽に言った。  S堂の番頭からさらにその指輪の出所を訊《き》き出すことは、かなり骨が折れたが、それでも鳥羽はやっと、それがほかの二、三の貴金属類とともに、宮崎という男から買いとったのであることを知ることができた。ついでに宮崎の住所を調べてもらうと、渋谷のD町にあるDアパートだということまでわかった。  とにかく宮崎を訪ねてみなければならない。いったい、内海の昔の細君の指輪を持っていたというその男は、どういう人物だろう。ひょっとすると、この男とお延とのあいだには、まだいくつかの鎖の環《わ》があるのじゃなかろうか、そう考えるといささかうんざりせざるを得なかったが、しかし、鳥羽は一刻も早くこの仕事を片づけてしまいたかったので、すぐその足でアパートへ出かけた。  出かけてみて、鳥羽はちょっと妙な気がした。というのはお延がまだ内海といっしょにいたころ——それはもう七、八年も昔のことだが——彼らはすぐこの近所に家を持っていたのである。そして当時|淋《さび》しい空き地だったあたりがすっかり町になってしまって、その中にアパートの大きな建物が建っているのだ。  鳥羽はいくらか気後《きおく》れのする自分を励ましながら、宮崎なる人物に面会を求めた。幸い宮崎は在宿中だった。  宮崎の部屋へ通されて、鳥羽が意外に感じたことには、相手はまだ学生だった。金ボタンの学生服に、度の強い眼鏡をかけた、見るからに神経質らしい風貌《ふうぼう》を持った宮崎は、鳥羽が入っていった時、すでに隠しきれない不安を眼にいっぱい浮かべていたが、鳥羽が用件を切り出すにいたって、極度の恐怖をその蒼白《あおじろ》んだ頬《ほお》に浮かべた。その驚きがあまり異常だったので、かえって鳥羽のほうが面食らったくらいである。  しかし、一度激しい衝撃《シヨツク》を味わってしまうと、あとはかえって度胸ができたものか、間もなく宮崎は割りに冷静な調子で話しだした。もっともその声はまだときどき、途切《とぎ》れたり、嗄《か》れたりしたけれど、 「わかりました。ぼくはすでにとうからこういう場合のことを覚悟していなければならなかったはずなんですがねえ」  宮崎は慨嘆するように言って、 「時に、あなたは警察関係の人なんですか」  それに対して鳥羽は、自分の立場を簡単に話すと、自分はただ、その指輪の最初の持ち主について訊《き》きたいだけだということを、かなり骨を折って相手にのみこませた。  黙って聞いていた宮崎は、相手の話の終わるのを待って、いきなり、 「その持ち主というのは、お延さんといやしませんか」  と言った。 「あ、それじゃきみはやっぱり、お延さんを知っているんですね。そのお延さんは今どこにいるのですか」  勢いこんで尋ねかける鳥羽の様子を、宮崎は冷ややかにながめていたが、やがて思い切ったように、 「話しましょう。話してしまったほうがいいのです。この話を聞いて、あなたが警察へ届けなければならぬとお思いになったら届けてください。播《ま》いた種は刈らねばならない。そのほうがぼくもどんなにかサバサバするでしょう」  宮崎は蒼白《あおじろ》い額《ひたい》に垂れかかる多い髪の毛を、ピアニストのような細い指でかきあげながら、沈痛な頬《ほお》にできるだけ冷ややかな笑いを刻んで、さて次ぎのような驚くべき話を始めたのである。 「あれは今から六年前のことでしたね。そう、ちょうどぼくが中学を出た年で、高等学校の受験に失敗して、一年ブラブラしていた時のことです。その時分ぼくはこの丘のすぐ向こうにある叔母《おば》の家に寄寓《きぐう》していたのですが、過度の勉強のためにかなりひどい神経衰弱にかかっていました。夜どうしてもうまく眠れないのです。それでほとんど毎晩のように、ずっと遅くなってから近所にある原っぱを歩き回るくせがついてしまいました。  ある晩、ぼくはやっぱりそうして原っぱを歩きに出かけました。時刻はすでに十二時を回っていましたろう。空にはチラホラ星が見えていましたが、原っぱの中は暗かったのを覚えています。ところがその時、ぼくは急に妙な気になったのです。というのは、その原っぱの端に、一本大きな欅《けやき》の木があるのですが、その欅の幹の下のほうに一つの巨《でか》い瘤《こぶ》がある。つまり非常に登りやすくできているわけで、ぼくは急にこの木に登りたくなったのです。  なぜそんなことをしたのか、自分でも妙な気がするのですが、なんとなくその木の上で冷たい風に吹かれたら、熱した頭も鎮まるだろう、少しは眠れるようになるだろう、たぶんそういった馬鹿馬鹿しい気紛れだったにちがいありませんが、さて、ぼくがその木に登ったかと思うとすぐ、向こうのほうから足音が聞こえて、一人の女がぼくの真下に来て立ち止まりました。  どうやら、だれかを待っているらしいんです。ぼくはまずいことになったと思いました。どうせこんな時刻に女が人を待ち合わせているといえば、それから後に来ることはわかりきっています。どうしよう、声をかけようか、それともさりげなく、人間が一人木の上にいることを覚《さと》らせるような方法をとろうか——そんなふうにとつおいつ思案しているうちに、また足音が聞こえてきたのです。 『お延さんかい』  後から来たのが言いました。低い男の声だったのです。暗いので姿は見えませんでした。 『信《しん》さん』  と、女のほうが言ってそばへ駆け寄りました。 『待ってたわ——』……」 「ちょっと待ってください」  鳥羽が非常に興奮の色を浮かべてさえぎった。 「その時、女は『信さん』と言ったのですね」 「そうです。が、どうか話の腰を折らないでください。ひょっとするとぼくの話す勇気がくじけてしまうかもしれませんから」  宮崎は刮《かつ》と眼をひらいて、 「『待ってたわ』」——しかし、そう言った女の声は喜んでいるよりむしろ当惑しているようでした。聞きようによっては、憤りに震えていると思えなくもありませんでした。少なくとも女にとって信さんなるその男は、あまり好もしい相手ではなかったらしいのです。 『昨夜《ゆうべ》もあんなに言っておいたのに』  なじるような調子でそう言いながら、女は男のそばへ寄ったのですが、そのとたん、妙なことが起こったのです。ちょうどそれは、ぼくのいた枝の茂みのすぐ下で行なわれたので、よく見えませんでしたが、突如二人のあいだに短い格闘が行なわれました。あっという女の叫びが聞こえました。それからバタバタと土を蹴《け》る足音が聞こえました。が、すぐにそれは終わってしまったのです。 「間もなく女の体らしい物をズルズルと引きずっていく、男の黒い影が、樹の下を離れて、ぼくの眼界に現われました。男の姿はすぐ暗闇《くらやみ》の中に消えてしまいましたが、やがてまた、こんどは自分ひとりだけ引き返してくると、そのへんの格闘の跡をかき消しておいて、そのまま、姿を隠してしまったのです。 「ぼくが樹の枝から下りてきたのは、それからずいぶん後のことです。ぼくはすぐに男が女の体を引きずっていったほうへ行ってみました。ぼくはもうその前から男がどうして女の屍体《したい》を始末したかちゃんと知っていたのです。というのは、その原っぱの隅《すみ》に、どうしてできたのか深い、井戸のような孔《あな》のあることをぼくはよく知っていたからです。ぼくはその孔をのぞいてみましたが何も見えませんでした。ぼくはこのことをだれにも話しませんでした。それはたしかによくないことです。しかし、それから間もなく行なったぼくの卑劣な行為にくらべれば、まだまだそれは罪の軽いほうだったのです。 「それから後、ぼくは毎日のようにその井戸の周囲《まわり》を歩き回りました。だれ一人、そこにそんな恐ろしい秘密があろうと気づく者はありません。たといだれかが偶然その井戸をのぞいたとしても、おそらくその秘密は看破されなかったでしょう。なぜといって井戸の底には草だの土だの、石ころだのが投げこまれて、その屍体を隠していたのですから。 「ある日、ぼくはとうとう思いきって非常な冒険を試みました。綱をつたってその井戸の底へ下りていったのです。果たして屍体はそこにありました。ぼくはそれを見届けると、すぐ帰って来るべきだったのです。ところがその時、妙なものがぼくの眼に触れました。小さな袱紗包《ふくさづつ》みなのです。ひらいてみると中には指輪だの首飾りだの、そういった装身具がいっぱい入っていました。その中の二、三が最近どうなったか、それはぼくのお話しするまでもなく、あなたもよく御承知のとおりですが、ほかのものはまだ保管してありますから、後でお目にかけましょう」 「さて、この装身具の類が突然ぼくを悪魔にしてしまいました。そいつをポケットにねじこむと、今まで大して恐ろしいとは思わなかったその屍体が急に恐ろしくなりました。そこで、大急ぎで孔の底から出ようとする拍子に、ぼくはまた妙なことに気がついたのです。女の口が少しひらいて、きれいな歯のあいだに何やらはさまっているのが、妙にぼくは気になったのです。そこでぼくは腰をかがめてその女の口をのぞきこみました。はさまっているのは、黝《くろず》んだ男の指でした」  しいんとした沈黙が二人のあいだに落ちこんできた。宮崎のはめている腕時計の音が、妙に心をいらだたせるようにカチカチと鳴りひびく。宮崎はその腕時計をはめた手で、長い髪を婆娑《ばさ》とかきあげながら、 「さあ、私の話はこれでおしまいです。私をどうするか、それは万事あなたの御自由なのです。もしあなたがお延さんという婦人の親戚《みより》のかたで、犯人を捕らえたいとお思いになるなら信さんという名前で、手の指が一本欠けている人物をお探しになればいいでしょう」 「屍体はまだそこにあるでしょうか」  しばらくして、やっと鳥羽がそう尋ねた。 「あるはずです。だれも見つけはしませんでしたから」 「取り出すわけにはいかんでしょうかね」 「とてもだめです。井戸は理められてしまいましたから」 「掘り出せばいいでしょう」 「だめです。井戸は埋められました。その上を地均《じなら》しがされました。そしてそこに、アパートが建ったのです。ぼくがなぜ、叔母の家を出て、このアパートに住んでいると思いますか。屍体はたぶん、骨になって、この真下に横たわっていることでしょう」  宮崎はそう言うと、気違いじみた眼で自分の立っている床を指さしたのである。     五  鳥羽はこの恐ろしい発見を内海にどう伝えたものだろうかと彼はほとほと、その才覚に苦しんでしまった。お延は宗像信也といっしょに逃げたのではなかった。お延はむしろ信也の邪《よこしま》な恋に反抗して、そして反抗したために殺されたのだ。この事実はきっと内海を喜ばせるだろうが、しかし一方必ず、彼を悲嘆の淵《ふち》に投げこむだろう。どちらにしてもこういうショッキングな話を、病人の耳に入れてよくないことはわかりきっていた。  鳥羽はなんとかして、この事実を自分ひとりの頭脳《あたま》でもみ消してしまいたいと思った。宗像はすでに死んでいるのだ。しかもその最期は普通の最期ではない。人間として立派な死にかたなのだ。最も光輝ある最期なのだ。鳥羽は今さら、昔のことを蒸し返して、宗像の身に傷をつけたくないという心持ちもした。こういう鳥羽のジレンマを、しかし、非常に突然な出来事が解決してくれたのである。  鳥羽があの恐ろしい事実を発見したその翌日、山の病院から電報がやってきた。電報は内海の急変を知らせてきたのである。そして鳥羽夫婦が取るものも取りあえず駆けつけた時には、内海はすでに息を引き取っていた。  鳥羽夫婦がその枕頭《ちんとう》にかけつけた時、彼らの間に合わなかったのを慰めるように、 「たいへん安らかな御臨終でしたよ」  と係の医者が言った。 「あなたがたへよろしくとのことでした。それから死というものは私のような人間にはうれしいものだとおっしゃいました」 「息をお引き取りになる間際に、私は馬鹿だった、と低い声でおっしゃいましたわ。そして、お延、お延とそうおっしゃったようでした」  看護婦が涙をおさえながら言った。 「あ、それからこれをあなたに渡してくださいとおっしゃいました」  渡された物を見て、鳥羽は思わず呼吸《いき》をのんだ。それは二通の封書で、方々|符箋《ふせん》がついてこの山の病院へ回って来たものだが、二通とも、宛名《あてな》は内海延子様となっていた。  ひらいてみると一通は宗像の戦死を知らせてきたのだった。もう一通は宗像が戦死の直前に延子に書いたものだった。  宗像が延子あてに手紙を書く。こんな不思議なことがあるだろうか、——鳥羽は非常に奇異な感じに打たれながら、あわててその中身を引き出したが、読んでいくうちに、彼の顔色は見る見るうちに変わってきた。  宗像はまず先年の非礼を謝罪したのち、自分がああいう行動に出たのは、愚かにもあなたがたいへん不幸な境遇にあると思いちがいをしたからだ。しかし、あの時、あなたの高潔な言葉と、不幸な御主人に対する貞淑な態度を見て、ただただ恥じ入るばかりであった。もしあなたが今もって自分の浅はかな態度に対して不快を感じていられるなら、どうか今こそそれを一掃していただきたい。なぜなら自分は次ぎの戦闘において戦死するつもりだが、あなたの心に不快な滓《かす》が残っていると思えば、死んでも死に切れぬであろうから。終わりにあなたとあなたの御主人の多幸ならんことを祈る。——そういった意味のことが、いかにも軍人らしい率直な調子で書いてあった。  鳥羽は読んでいくうちに、思わず胸を打たれた。そこには嘘《うそ》も偽《いつわ》りもない宗像信也なる人物の善良さと高潔さが切々として読む人の胸に迫るのだ。鳥羽は呆然《ぼうぜん》とその手紙を握りしめた。  これはたしかに辻褄《つじつま》の合わない発見だったにちがいなかった。宗像は延子が死んでいることを知っていなければならぬはずだ。なぜといって彼こそ、延子を殺した犯人なのだから。  しかし、この手紙に嘘やごまかしがあろうとは思えない。勇士が戦死を覚悟の軍《いくさ》の首途《かどで》にそんな小細工を弄《ろう》するとは思えないのだ。そうすると、延子を殺したのはいったいだれだろう。  鳥羽はふと気がついて、その封筒についている最後の符箋の日付を調べてみた。すると、内海がこの手紙を受け取ったのは、鳥羽が新聞で、宗像の戦死を知ったのと同じ日であることがわかった。そうすると内海がこの前電報で自分を呼び寄せたのは、これらの発見をした直後のことであろうと思われるにもかかわらず、内海はなぜその話をしなかったのだろう。そして、反対になぜ自分をしてあのような恐ろしい発見をせしめるような、奇異な用件を託したのだろう。  その時、突然、ある恐ろしい考えが、さっと鳥羽の頭にひらめいた。と、それとほとんど同時に澄子が叫んだのである。 「あらまあ、内海さん、いつも左の手を隠していると思ったら、小指がほら半分なかったのだわ!」  鳥羽は、しかし驚かなかった。  彼はそばへ寄って、ちょっとその小指を見ると、両手を静かに胸の上に組んでやった。それから澄子に言った。 「お澄、内海の涙を拭《ふ》いておやり。臨終の時泣いたんだね、ほら、まだ涙が残っている」 [#改ページ] [#見出し]  誘蛾燈 「ああ、今夜もまた、誘蛾燈《ゆうがとう》に灯《ひ》が入った」  自らあざけるような、低い、陰々たるつぶやきだった。  さっきから熱心に、新聞を読んでいた青年が、その声にふと新聞をおいて、窓ぎわに座っているその男を見た。 「え? いま何かおっしゃいましたか?」  窓ぎわの男はびっくりしてこちらを振り向くと、トロリとした眼で、しばらく、青年の顔を見つめていたが、やがてあわてて顔を横に振ると、いくらか照れたように卓上のウイスキーを舐《な》め、それからまた、食い入るような視線を窓の外に投げるのだった。  年格好は四十二、三であろう。ネクタイもしめない、垢《あか》じんだワイシャツの上に、肘《ひじ》の光るアルパカの洋服を着ていて、ずんぐりとした骨太い体つき、太い首筋、厚い胸、日に焼けたあから顔、荒々しいその全身のどこやらに、海洋の匂《にお》いが強くしみとおっているのである。  台湾航路の水夫長。——まずそういったところであろうと青年は心のうちで値踏みをしていたが、それにしても、いかにも落莫《らくばく》たる感じが、このうらぶれた山の手の酒場《バー》にふさわしくて、いっそ侘《わ》びしいのだ。  男はいかにも惜しそうに、ちびりちびりとウイスキーを舐めながら、やがて青年のことを忘れ果てたように、窓外の闇《やみ》を凝視しつづけている。青年は再び新聞の上に眼を落とした。おりから客としてはこの二人よりほかになかった。壁に貼《は》った美人画のポスターの下に、女給が一人、こくりこくりと、居眠りをしている。  時刻は夜の十時過ぎ。  窓の外には乳色の霧がしっとりとおりて、酒場の灯ばかりがいやに明るいのも、かえって侘びしさを誘うような晩だった。 「ははははは、来た、来た、蛾《が》が舞いこんできやがったぞ。誘蛾燈に誘われて、可哀そうな蛾が舞いこんできやがった。畜生っ、あいつもいずれ、翅《はね》を焼かれて死んでしまやがるんだろう」  ごろごろと咽喉《のど》を鳴らすような声だった。歯ぎしりをして、手をたたいているような調子だった。  青年はぎょっとしたように、再び新聞から眼を離すと、その男のほうを見た。男は窓ガラスに額《ひたい》をこすりつけるようにして、霧のかなたを凝視しているのである。泥酔したその横顔には、どこやらに気違いじみたところがあった。  青年も誘われたように窓の外を見る。  しかし、そこには濃い乳色の霧が渦巻《うずま》いているばかり、誘蛾燈もなければ、むろん蛾も舞っていなかった。だいいち、霧のつめたいこの十一月の夜は、蛾の出るにふさわしい季節ではなかったのである。  青年は立って男のそばに寄ると、そっとその肘《ひじ》に手をおいた。 「どうかしたのですか」  言いながら男の前に腰をおろした。 「どこにも誘蛾燈なんか見えないじゃありませんか」  男はまるで針に刺されたように、ピクリと振り返ったが、青年の顔を見ると、いくらか安心したように、 「ああ、おれの独り言が聞こえたのかな」 「いったい、どこに誘蛾燈があるんです。どこに蛾が舞っているんですか」  男は思い出したようにウイスキーの杯《さかずき》を取りあげると、改めて、しげしげと青年の顔をながめながら、 「誘蛾燈かね。ほら、向こうに見えるあの灯がそれだよ」  青年は相手が顎《あご》をしゃくって見せたほうへ眼をやった。霧の向こうに、ほんのりと暈《ぼか》したように見える薔薇《ばら》色の灯は、このうらぶれた酒場と、アカシアの道を一つ隔てた坂上にある、瀟洒《しようしや》たるバンガロー風の建物の窓であることを、青年はよく知っていた。  青年はなぜか、ドキッとした様子で、 「あれが、——あの窓の灯が誘蛾燈だとおっしゃるのですか」 「そうよ、あの窓の灯が薔薇色に輝いた晩にゃ気をつけなくちゃいけねえ。愚かな蛾どもが翅《はね》を焼かれるのも知らねえで、ついうかうかと舞いこむやつさ。お若《わけ》えの、おめえも用心しなくちゃいけねえぜ。おめえみてえな、若い、いい男は、いつ何時、あの薔薇色の灯に魅入《みい》られるかもしれねえからな」  男は咽喉の奥でかすかな笑い声を立てると、グラスの底にかすかに溜《た》まっているウイスキーを、残り惜しそうに口の中にたらしこんだ。  青年はそれを見ると、指でコツコツとテーブルをたたいて、居眠りをしていた女給をたたき起こした。 「きみ、ウイスキーを持ってきてくれたまえ。ああ、いいから瓶《びん》ごとくれたまえ」  女給がウイスキーの瓶を抱えてくると、青年は手ずから相手のグラスになみなみと注いでやり、それから瓶を相手のほうに押しやりながら、 「ぼくは飲めないのです。よかったらいくらでも飲んでください。その代わり話してくれませんか。あの薔薇色の灯の由来《いわれ》を」  青年は白い額に、非常に熱心な色を浮かべて、いくらか早口に、 「ぼくもこのあいだから不思議に思っていたんですよ。あの窓の灯は毎晩、色が変わっていますね。このあいだは琥珀色《こはくいろ》だった。そして昨日はたしか紫色だった。ところで今夜の薔薇色にはいったい、どういう因縁があるんです」  男は飢えたような眼で、ウイスキーのグラスと青年の顔を等分にながめていたが、 「お若えの、これ、ほんとうに御馳走《ごちそう》になってもいいのかい」 「え、いくらでも飲んでください。足りなきゃもっと取り寄せますよ」 「すまねえな。おれゃ船に乗っている時分からやけに咽喉が渇く性分でな。それじゃ遠慮なく御馳走になろうか」  男はみごとに咽喉を鳴らしてひと息にウイスキーを吸うと、トロリとした眼で青年の顔を見すえながら、 「ははははは、勘弁しておくんなせえ、これがおれの病でな。酒と女のために身を滅ぼそうというやつよ。お若えの、おめえも気をつけなくちゃいけねえぜ」 「そんなことはどうでもいいのです」  青年は自烈《じれ》ったそうに、 「それより、あの誘蛾燈がどうしたというのですか」 「ほい、しまった。おめえの訊《き》きてえのはその話だったな。よしよしそれじゃ話してやろうよ」  男は危なげな手つきで自ら、ウイスキーを注ぎながら、 「おめえはあのバンガローに住んでいる女を知っているか。素敵滅法《すてきめつぽう》もない別嬪《べつぴん》さ」 「知っていますとも。この辺に住んでいてあの女を知らない者はないでしょうよ」 「そうだ、その別嬪があの誘蛾燈に網を張っている女郎|蜘蛛《ぐも》さ。わかったかい。あの薔薇色の灯に誘われて、うかうかと舞いこむ愚かな蛾どもの生血を吸う、恐ろしい蜘蛛さ。よし、おれの知っていることをみんな話してやろう。あの別嬪の御亭主《ごていしゆ》というのは、もとどこか大きな会社の専務かなんかだという話だ。ずっしりと腹の出た恰幅《かつぷく》のいい、そうそう仁丹《じんたん》の広告みてえないい男だったよ。あの女にゃ、その時分から妙なくせがあってな、毎晩、寝室の灯の色を変えなけりゃ寝られねえというのさ。赤、紫、琥珀《こはく》色、橙《オレンジ》色というようにな。だが、ほかの色の晩にゃ何事もねえ。ただ、気をつけなくちゃいけねえのは、薔薇色の灯がついた晩だ。その晩にゃ決まって御亭主が留守なんだ。そして馬鹿な蛾どもが、人知れず裏木戸から忍びこんでこようという寸法よ。あの薔薇色の灯に誘われて、ついうかうかと忍びこんでこようという寸法よ」  男は咽喉のただれるような強い酒を、再びぐいぐいと呷《あお》ると、熱心に利き耳を立てている青年の顔を見て、にやりと意味ありげな微笑を漏らした。 「つまりよ、あの薔薇色の灯てえなあ、亭主が留守だてえ、発火信号みてえなものよ。毎晩、寝室の灯の色をかえなきゃ寝られねえなんて、くそおもしろくもねえ、そいつをごまかす手にすぎねえのよ。つまり一種のカモフラージュだあね。  ところで御亭主てえのは、前にも言ったとおり仁丹の広告みてえないい男でよ、年だってそう老《ふ》けちゃいねえ、その時分、四十二、三だったかな、つまり脂《あぶら》の乗り切った若手の実業家ときてらあ。これじゃ世間がおもしろくて、まっすぐに家へ帰れねえのも無理じゃねえやな。  だから、薔薇色の灯が窓に輝く晩がだんだん多くなってきたてえのもわかるだろう。どうかすると、二晩も、三晩も薔薇色の灯がつけっ放しになっていたものよ。ところが、そういうある晩、たいへんなことが起こった。なあ、お若えの、たいへんなことが起こったんだぜ」  男は酔漢《よつぱらい》特有の大げさな身振りでそう言うと、ふいにふうっと声を落として、青年の顔をのぞきこんだ。青年の顔はなぜか真《ま》っ蒼《さお》だった。 「その晩、舞いこんでたてえのは、なんでも拳闘家《ボクサー》くずれかなんかの、まだ若え、初心《うぶ》な男だった。ところがそこへ、帰らねえはずの御亭主というのが、突然帰ってきたからひと騒動だろうじゃねえか。  御亭主はひと目その場のありさまを見ると、すぐ事情を察してしまった。こりゃだれにだってわからあな。夜よなか若え男と女とがしどけねえ格好で差し向かいになってりゃな。ところでこの時、御亭主はどうしたと思う。しばらく入り口のところに立ったまま、例の仁丹の広告みてえなきれえな顔に、あざけるような微笑を浮かべて二人を見ていたが、やがてつかつかと中へ入ってくると、いきなり拳闘家くずれの耳に手をかけて、ぐいぐいと入り口のほうへ引きずっていったものだ。  女が化粧台の抽斗《ひきだし》からすらりと短刀を引き抜いたのはこの時だった。いいかえ、いきなり短刀の鞘《さや》を払ったんだぜ。あっという間もない、まるで蛇《へび》のように亭主の背後に這《は》い寄ると、ぐさっとひと突き、貝殻骨《かいがらぼね》の下のあたりだ、それからもうひと突き。——それで万事おしまいよ、亭主は声も立てずに床の上に倒れちまった。  すごい女だ。そのあいだ、顔の筋一つ動かさねえ。かえって情人《おとこ》のほうが歯をガタガタ鳴らせながら立っている。女はいきなりその腕をつかむと、 『——逃げて、逃げてちょうだい! あとはなんとかあたしが鳧《けり》をつけます』  情人《おとこ》が廊下のほうへ出ようとすると、 『——そっちじゃない。そっちは危ない。窓から、窓からとび下りて!』  情人が言われるままに窓をひらくと、そのうしろにすり寄った女は、いきなり化粧台の抽斗《ひきだし》からつかみ出した、指輪だの首飾りだのを相手のポケットにねじこんで、 『——これを、これを当座の小遣いにして。また、また、いつかね』  二人は抱きあった。そしてキスした。だが、その次ぎの瞬間、情人が窓の下の花壇の上にとび下りた時、女はやにわに腕を伸ばしてダン! ダン!  情人は花壇の上に一度|膝《ひざ》をついて、窓のほうを振り返った。そして、女の握っているピストルと、殺気にみちた女の顔を見ると、何もかもわかったにちがいねえ。何やら大声に叫びながら、向こうのほうへ走りかけたが、その時またもや、ダン! ダン! 情人はバッタリ倒れた。それでも必死の力を振りしぼって、裏木戸まで這《は》っていったが、そこで力が尽きたのか、そのまま、ガックリ動かなくなってしまったのだ。その時、女ははじめて大声で叫んだものよ。 『——泥棒! 人殺し! だれか来てえ』」  男はそこまでひと息に話してくると、はっとしたように肩を落としてテーブルの上のグラスに眼をやった。だからその時青年の体が、かすかに震えているのに気づかなかったのも無理はない。 「それから後のことは話すまでもなかろう。可哀そうに、情人のやつ、あられもない強盗殺人の罪をきせられて、それなり鳧《けり》よ。女か、女がどうなるものか。あっぱれ亭主の敵《かたき》を討った貞女の鑑《かがみ》てえわけよ。なんでも、その情人てえのは、一ヵ月ほど前、リングの上で大|怪我《けが》をして、二度と拳闘家として立つことができなくなり、すっかり自棄《やけ》っぱちになっていて、強盗もしかねまじきありさまだったていう、人々が駆けつけてきたときにゃ、すでに呼吸もなかったのだから、ほら、譬《たと》えにもいう死人に口なし、女はぬくぬくと亭主の遺産を抱いて、今でもあのとおり栄えているのさ」  青年はふいにぶるぶると体を震わせると、手の甲でべっとりと額《ひたい》ににじみ出ている汗をぬぐった。それから乾いた唇《くちびる》を舐《な》めながら、 「あの女が——、あの女が——、信じられない。そ、そんな馬鹿なことが!」 「おい、お若えの、それじゃおれが作り話でもしているというのかい」 「そ、そうです。だいいち、あなたはだれにそんな話を聞いたのです。亭主も情人も死んでいる。まさか、女がそんな話をしようとは思われませんからねえ」 「おれゃだれにも聞きやしねえ。おれはこの眼でちゃんと見たのだ。今だから言うがな」  男はふいと声を落として、 「おれもあの晩、薔薇色の灯に魅入《みい》られて、ふらふらと迷いこんだ蛾のひとりだったのさ。だが、迷いこんでみると、そこにゃおれより若い先客があるじゃねえか。おれだっておもしろくねえやな。だから押し入れの中に隠れていて、あいつらのさざめきを聞いていたのよ」 「あなたが、あなたが——?」 「そうよ。おかしいかい。おれがあの女と知ったのはなあ、女が上海《シヤンハイ》からの帰りだった。おれゃその時分、水夫長をしていたんだが、今みてえじゃねえ、いくらかりゅう[#「りゅう」に傍点]ともしていたし、それに、おれのこの太い首や、厚い胸や、荒々しい振る舞いがあの女のお気に召したってわけさ。おそらく、薔薇色の部屋の客で、いちばん長続きがしたのは、このおれだったろうぜ」 「あなたが——? あなたが——?」  青年は再び、執拗《しつよう》に反抗した。 「信じられない。そのあなたが。——いかに物好きだろうとも、あの女の恋人だなんて、ははははは、あなたはきっと、ぼくをからかっていらっしゃるのでしょう」 「よし!」  ふいに男が憤然《むつ》としたように言った。 「おめえがそう言うなら、ひとつ証拠を見せてやらあ。これはな、あの部屋の客になった者だけが知っている女の秘密なんだ」  男はそう言うと、左の袖《そで》をまくしあげると、 「あいつは豹《ひよう》なんだ。いいか、荒々しい雌豹《めひよう》なんだぜ。悪ふざけが度を越してくると、相手かまわず噛《か》みつきゃがるのだ。女はこれを恋の記念《かたみ》だと言いやがった。見ねえ、おれの腕に残っているこの歯の痕《あと》を」  たくましい男の腕に、ありありと残っている可愛い歯型を、青年はなぜか、恐ろしいほどの熱心さでながめていたが、ふいに、激しく呼吸《いき》をうちへ引くと、 「わかりました」  と、放心したように言った。 「もう、あなたの話を疑いません。なぜといって、ぼくは前にも一度、これと同じ歯型を見たことがあるからです」 「なに、おめえが?」  男はびっくりして、ふいに体を乗り出すと、 「どこで、——どこで見なすった?」 「あの女に殺された、弟の体に。——そうなんです。今お話しになった可哀そうな拳闘家くずれというのはぼくの弟なのです。弟はなるほど、ぼくとは反対に荒々しい男でした。しかし、ぼくにはどうしても、弟がそんな恐ろしい、強盗などしようとは考えられなかったのです。だから、こうして毎日、あのバンガローの付近をうろついて、何かしら反証をあげたいと思っていたのです。ありがとうございました。これで何もかもわかりました。さようなら」 「ちょ、ちょっと待ちねえ」  男はあわてて青年の袖を引きとめると、 「おめえ血相変えて、これからどこへ行くつもりだ」 「あの家へ行くのです。そして弟の敵《かたき》を討つのです」 「よしねえ、よしねえ。あの薔薇色の灯はさっきも言ったとおり誘蛾燈なんだ。おめえみてえな若い男が迷いこんだら碌《ろく》なことはありゃしねえぜ」 「大丈夫です。ぼくの胸には今、あの女に対する憎しみと恨みが燃えさかっているのです。あの女に何ができるものですか」  青年は蒼白《あおじろ》んだ頬《ほお》に、すごいような微笑を浮かべると、勘定を払って、さっと深い夜霧の中に出ていった。誘蛾燈に誘われていく蛾のように、外套《がいとう》の襟《えり》をバタバタはためかせながら。——  その晩、あの薔薇色の灯の奥で、どんなことがあったかだれも知らない。  ただわかっているのは、それから二、三日後、付近の濠《ほり》の中に溺死体《できしたい》となって発見されたのが、どうやらその青年らしいということだけである。そして、その青年の白い肩には、紫色の歯型がなまなましくついていたということである。  女はその後いよいよ美しさを増したという評判だ。そして今でも時々、あの坂の上のバンガローからは艶《なまめ》かしい薔薇色の灯が漏れることがある。哀れな、蛾を誘うように。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『誘蛾燈』昭和53年2月25日初版発行